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はなとき通りのまちづくり

(94/03/11)
愛知県田原町は渥美半島のつけねにある人口36000人程の町で、近年埋立地にトヨタが進出し、急激に人口が伸びている町です。町では中心地区商店街を再生すべく、昭和59年ごろから再開発に向けて調査等を行ってきました。
はなとき通りは、その中心地区に隣接する長さ110m 程度の小さな商店街ですが、中心地区への都市計画道路の拡幅が予定されていたため、これにあわせ中心地区の次に再開発でも、という感じで当地区の検討が始められました。当初は原則として今住んでいる人が全員住み続けられるようにと共同建替の方向で検討が進められましたが、土地の共同所有、建物の区分所有という所有形態や回りがたんぼや戸建てばかりという中での共同住宅居住といったことが地域になじまない、ということから、建物は協調建替、そして商店経営を行わない方については区域外への移転、それに伴い土地の権利変換も行うなど、区画整理に近い土地分合と建替えを行うこととなりました。また道路沿いには、土地は各自所有のまま共同利用可能な駐車場を道路沿いに確保するとともに、デザイン統一等を図りつつ各戸個別に建替を行い、郊外店舗との競争力を強めた商店街づくりをするということです。現在はいくつか建設中であり、また建築協定等も検討中ということです。
この協調建替というものが当初の町の方針とは違って住民たちの話し合いの中で決まってきたこと、そうした経験を通して地元に商店街組合も結成され「地域自らの意志と自らの責任において動いていくまちづくり」が実践されている点が、非常に面白いと思いました。
ここに入っているコンサルタントは、もともと町からはいったのでなく、地元の不動産屋からの紹介で地元から入っていったので、最初から地権者の意向を聞きまとめる、というスタンスで入っていけたことが大きかったようです。あとは週2回程度の集まりに必ず顔を出し、地権者個々の意向を聞き、移転先の希望や資金相談、商業コンサル的な業務も含め、相談に乗りつつ、当初は共同建替の計画案づくり、後には協調建替の各戸の統一デザインや共用部分の整備計画案作りの業務に携わっていたようです。またこの過程で町へも街路事業の枠を超えた取組みを求める等、行政へも顔を向けた取組みがあった模様です。
コンサルタント委託料は、最初は再開発委員会からの活動経費50万円のみ、次の年度(H3)が共同建替推進調査委託として町から600万円ほど、次の年(H4)には国の商業地域新興整備事業補助をもらって基本設計費を600万円ほど(国200万円、町200万円、地元200万円)。平成5年度は商店街組合からの委託で240万円程度、来年度は共同施設の整備費補助を商工関係からもらってくる予定だそうです。こんな程度でできるの、というのが感想ですが、個々の設計を受託してなんとか、というのが実態かもしれません。
建築設計事務所が行うまちづくりへの入り方として、おもしろいなあ、という感想です。
(97/3/25)
その後、道路東側の街区の各商店の建替えが終わり、併せて道路沿いの共同管理施設である駐車場及びストリートファニチャー、植栽等の整備ができたことから、1995年春にまちびらきが行われました。ちなみにこれらの施設は、町管理の公共施設ではなく、この道路沿いの各店舗の所有で、管理を共同で行うという形態となっています。また、その後、道路西側の街区も建替え等が行われました。<写真:西側地区の建替後の様子>
(98/ 1/ 6)
年末に再度田原町へ訪れる機会がありました。今回は中心市街地の過疎・高齢化対応を考えよう、という趣旨でしたが、はなとき通りのまちづくりが進んでいた頃担当していた方がたまたま異動もあり、今回の仕事の担当でもありましたので、当時のことなどを聞くことができました。
まず、はなとき通りの現状ですが、通り自体は既に完成をし、またまちづくりを進めてきた組織は旭町商店街振興組合として共同施設の管理や商店街の企画・運営を行っています。それだけでなく、「はなとき塾」という勉強会を組織し、最近は周辺の商店街等を巻き込んで勉強会なども進めているそうです。さて、担当された方の弁によれば、そうした活動や最近の展開状況は大いに評価しているものの、当時はよく喧嘩したものだと振り返ってくれました。このまちづくりでは、前述したように、街路事業の実施に併せて民間ベースで土地の交換分合等が行われ、その過程では、商売をやられていない一般住宅の方や高齢等の故に店を終われる方などは土地を譲渡し区域外へ転出するようなケースもありました。街路事業の用地買収を進めていくうちには、こうした転出者からの様々な思いが届き、また時にはまちづくりの会の意向を伝えつつ生活相談に乗り、そして多くはまちづくりの会とこれらの人への対応などで調整をし、時に喧嘩もしたということです。結果としては、こうして商店街に純化することでこの通りは成功しているし、それを基本的には民間ベースで行われたということで評価もされるわけですが、その陰にはこうした行政サイドの気苦労と尽力があったということです。またこの活動を成功に導く上では、前向きな目標を掲げ、それに向けてメンバーの意気をまとめていく必要があったことは理解しますが、その一方でこの活動に否定的な人(活動は理解しつつも生まれ育った街にあくまで愛着を抱く高齢者等)に対して、その心を汲みつつ丁寧に時間をかけてまとめていくというのは難しい面もあった。結局こうした哀しい心を拾っていくのが行政の役割なのかもしれません。