覚王山界隈 ウォッチング


揚輝荘「聴松閣」


(95/10/03)
 1995/9/30に、名古屋市覚王山界隈の建築資産をウォッチングしてきました。今回も主催は愛知建築士会国際トリエンナーレ準備特別委員会の主催です。
 覚王山とは、千種・今池といった商業・業務地から程近い名古屋市の東部にある住宅地で、日泰寺という名古屋では有名な寺があり、弘法さんの日にはおばあちゃんたちで界隈があふれかえるという街です。また名古屋大学にも近く、幹線道路沿いは商業・業務地になっており、都心に近い高級住宅地といった感じでしょうか。
 まずは地下鉄「覚王山」駅下車5分の所にある「月見寿司」というお寿司屋さんに集まりました。曇りがちの天気ではあるものの、なんとか天候が持つことを祈りつつ、名物の手桶寿司を頬張る。ちなみにこの店、日が日だとおばあちゃんでいっぱい。そうでなくても普段から予約必定の超人気店だそうです。
● 鍋屋上野浄水場
 おなかがふくれたら、車に分乗して、少し離れた、鍋屋上野浄水場へ。
 谷口の交差点北東に位置するこの水道局の施設は、水道の日などには一般公開をしているのは知っていましたが、私は初めて入らせていただきました。
 広大な貯水池が広がる手前に、ぽつんと建っている煉瓦造りの建物が「鍋屋上野浄水場第一ポンプ場」。これは大正3年に開始された名古屋市の給水事業の当初からつい最近まで現役で活躍していた建造物で、組積煉瓦造、屋根は鉄骨トラスにスレート葺き、ホイストもついた高さ20mほどの平屋建てす。桁方向の外壁はホイストのあるかなり高い位置で上下に窓がつき、梁間方向の正面は上下窓の位置がほぼ等分の位置についています。窓や軒廻り、コーナー等は石でつくられ、正面窓の上部はアーチで飾られるなど、けっこう美しい装飾が施されています。
 ここは三菱重工の工場に近かったせいか空襲でよくねらわれたそうで、煉瓦の外壁面には数多くの砲弾の跡がついており、補修が行われていますが、どうも最近わざわざ色を塗って白いペンキで目地部分を描くといった粗雑な補修が行われたようで、この部分はあまり感心しませんでした。
 屋内は腰板としっくいの簡素なつくりで、今もいくつかのポンプが据えられ、往時が偲ばれます。といってもほんの2〜3年前まで現役だったんですけど。
● 東山給水塔
 続いて、覚王山方面に戻って、東山給水塔に行きました。これは、先の鍋屋上野浄水場からポンプで圧送された水を貯め、市内各地へ配水するための施設で、当時はここが市内でも最も高かったとのことでした。
 RC造で高さ約30m。頂部に円錐の屋根が乗った姿は、松茸の親分を見るようで、蔦が絡まる外壁とともに、この地域のシンボルとなっています。
 展望台からの眺めは抜群で、足下にある市長公舎を始め、市内の各施設、とりわけ名古屋ドームの建築現場がよく見えました。
 ところで何故いったんこの給水塔に貯める必要があるのか、ということを質問したところ、停電等でポンプが止まっても自然流下で水を配れるように、ということで、なるほどと納得しました。
● 大竜寺及び周辺の寺
 東山給水塔から大きい道路を渡って東側。日泰寺霊園の南東側にいくつかの寺院が集まっています。その中でまず行ったのが、大竜寺。ここは宇治の万福寺の末裔の禅宗の寺で、1731年開山だそうです。ここの一番の特徴は、城郭風の本堂。屋根の上に"し尾"を高々と揚げ、2階建ての上層部はまるでお城のような風貌。ここから、この建物は名古屋城の古材が転用されているという伝承があるそうです。真実は不明。また両翼には羅漢堂が配され、西側のお堂には歴代の住職とおぼしき像が何体も飾られていました。また東側のお堂は現在改修中のようで、土台の部分が取り替え済み、土壁も一部取り壊されていましたが、おかげて竹小舞の荒縄のかけ方とか、出入口の厚く塗ったしっくいの様子などが知ることができ、それはそれで興味深いものがありました。
 この周辺にはまだいくつかの寺院があります。その中で目に止まったのは、園明山台観寺という天台宗の寺。茅葺きの雰囲気の良い小振りの山門に独特の形象文字で寺号が揚げられ、ひねくれた木の根っこを軒に飾り、そうした禅風の雅味が加味しみを感じさせる小寺でした。
● 揚輝荘(伊藤邸)
 さて次はいよいよ、本日のメインイベント、名古屋の豪商、あの「松坂屋」の総帥だった第15代伊藤次郎左衛門祐民が生涯の趣味の粋を集めた別邸、揚輝荘です。場所は日泰寺の南側、マツザカヤストアの奥。さっそくその主屋である洋館「聴松閣」の前に車を止めました。
 この洋館は、木造3階建て地下1階の山荘風の建物で、玄関正面に粗石を積み上げた観の柱が立ち、その間には虎の彫刻が置かれ、その先に欅1枚物の重厚な扉があります。1階外壁は横板張り、2階は梁・柱を見せたしっくい塗り(スイス山荘風)となっており、柱・梁に鉈目が入ってそれらしく仕上げています。当日は伊藤家現在当主の奥方が出迎え案内をしていただきました。
 まずは玄関を入って豪快な玄関廻りをおおーっと声を上げながらそのまま奥の応接室に入りました。なんでも一時は松坂屋従業員の寮としていたそうで、応接室に続く洋室なども何部屋かに小さく仕切られていました。この部屋で奥さんの接待でお茶を飲む、というのは庶民の私としては大大贅沢です。
 しかし一番の見せ場は地下の広間と舞踏室。階段を降りるとある広間には壁面にインド留学生による壁画が描かれ、これがなんとも色っぽく雰囲気を醸し出している(ただし、その後の改修により壁面の一部がくり抜かれダクトが貫通していたり、土壁が絵とともに剥がれ始めたりしていて、少し残念でもあります。)。さらにその右手奥にあるのが舞踏室。30畳程度の小振りの部屋には半円形の舞台も設けられ、また正面奥にはインド趣味の暖炉が切られ、壁面には線画やタイルで様々な模様が入り、ドライエリアからはステンドグラスやガラスブロックにゆがめられた光が妖しくくそそぎこむ。かつてはステンドグラスで彩られた光がドライエリア壁面にヒマラヤの山容を浮かび上がらせたそうです。この夏には家庭画報9月号の誌面を飾った花のディスプレイ・イベントが開かれ、屋敷中を花で飾ったそうで、この舞踏室も一面お花が活けられ、それは見事だったそうです。とにかく、名古屋の住宅地の一隅にこんな妖しくも美しい空間があったなんて、とても知りませんでした。ちなみに次は油絵の展覧会が予定されており、また演奏会などにも使っていただけたら嬉しいと、奥様がおっしゃっていました。
 続いて、2階に上がります。この階段も手すり等に鉈目のついたしっかりとした感じの物ですが、2階の天井は開くことができ、そうすると3階トップライトの光が1階ホールまで降り注ぐ、といった趣向を凝らした構造になっていました。2階はかつては、和室、洋室そして中国趣味の部屋まで、様々な部屋、多分客室が連なっていましたが、その後寮として活用した際に間仕切りを入れ、和室も洋室として使っていました。また瀟洒な雰囲気の書斎もあり、外にはこのお屋敷の庭が広がり、さぞ快適な気分で書き物などできたことでしょう。さらに3階には広い和室。ひょっとしたら当初は物入れとして畳も敷かずにいたかもしれない、ここも後から間仕切り壁を入れた跡がありました。そして破れた天窓を覗き込むと竹中工務店の棟板が納められています。代々竹中藤右衛門は伊藤家の大工棟梁を務めていたとのことです。昭和12年築、延べ床面積815m2の逸品です。
 聴松閣を出て、前面のかつてのテニスコート(今は駐車場)を通ってさらに奥に向かうと木々が生い茂る庭園が広がっています。その奥には伴華楼(バンガロー)という名の洋館があるのですが、これはひとまずおいといて、右に折れて庭を観賞します。紅葉がまだ青い葉を一面に光らせた中に鯉の泳ぐ池が広がり、亭橋という橋がかかります。唐様の橋で、屋根もついた堂々とした風体。天井には竜が描かれ、木組みのしっかりした素晴らしい橋です。
 そこから門を通って改めて伴華楼に向かいます。門の壁面には瓦を埋め込んで飾りとし、また伴華楼自身の外壁には腰の部分には同様の飾り、また上部壁面は神戸の洋館を思わせる鱗状のスレート葺き。聴松閣とは打って変わって、贅を凝らした造りとなっています。1階は現在も使用中ということで2階を見せてもらいましたが、瓦をあしらった暖炉のあるこじんまりとした応接室、そして奥には廊下のある和室が2部屋と洋室(多分ピアノを置いたと思われるアルコープ付き)。さらに奥に続いていますが、とりあえずはここまで。この和室でお正月には書き初めが行われるそうです。
 最後に、伴華楼横にある茶室「暮雪庵」を拝見。鍵の手となった茶室としてはけっこう大きなもので、茅葺きの屋根に一部は瓦も載っています。裏の水屋等も見せてもらいましたが、立派なもので、ここも時々茶会等で使われる、また使っていただきたい、とおっしゃっていました。
 伊藤邸を名残惜しくも辞した後、落ちる夕日にせかされつつ、急いで愛知学院大学に向かいました。
● 愛知学院本館
 愛知学院大学の正門を入った所にそびえているのが、本館です。これは昭和3年、まだ愛知学院が愛知中学校と称していたときに建設したもので、RC造3階建て(戦後3階部分を増築)のタイル張りの洋風建築です。玄関を真ん中に左右にのびのびとした建物で、リズムよくギリシャ神殿様の柱がついていますが、よく見ると柱頭に乗る軒線が途中で分割されており、付け柱(飾りの柱)なのだそうです。
● 茶室「洗心軒」
 続いて、西隣にある城山八幡宮にお参りし、そこが所有する茶室「洗心軒」を見せてもらいました。これは元名古屋商工会議所会頭、高松定一氏の別邸で、明治中期建築の2階建て木造建築で、当初名古屋駅前に近い納屋橋付近にあったものを、昭和43年に移築したものだそうで、現在は急峻な土地の上にRCで人工地盤を作って、その上に建っていました。京都の詩仙堂をなぞらえたそうで、西側が塔状に高く、東側に低く縁をめぐらせてあります。
 屋内は複数の茶席に仕切られており、様々なつくりの茶室がありました。当日は締め切った中を見学させてもらいましたが、月でも明るい夜に、回りの緑と静溢の中で時間を過ごせたら、それはそれは心が落ち着くでしょうね。
● 昭和塾堂
 最後に訪れたのは、愛知学院の大学院校舎として今も使われている「昭和塾堂」です。これは昭和3年に愛知県が、青年教育のための施設として建設したもので「人づくりの殿堂」をめざし、中央に高い塔があり、左右に45度振って両翼が伸び、上から見ても「人」の字、横から見ても「人」の字という、なんとも人を食った建物ですね。設計は佐野利器博士の助言の元、愛知県営繕課が行ったということです。「人」の字という以外、デザイン的にはそう大したこともない建物ですが、名古屋のメインストリートの一つ、広小路からよく見えます。


 注意:これらの建物は、愛知建築士会のメンバー及び建物所有者の好意により見学させてもらったもので、通常は見学が許されないものもあります。勝手に敷地内や建物内に入ることは違法行為になりますのでご留意願います。




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