[PR]結婚の悩みって多いょ!占う?:よく当たる願いが叶う占いって評判ダョ♪
■ 建築雑誌 200712 (2007.12.28)
書名/建築雑誌 200712
発行所/日本建築学会 出版日/2007年12月20日
頁数/108P 価格/1300円(税込)
今月の建築雑誌の特集は「みんなの建築」。「みんなの○○」という表現は最近、他でも見たことがある。流行かなと思ったが、どうだろう。責任をみんなで分担したいという気分もあるが、この特集としては、建築の専門家だけでなく、一般の市民も含めて多くの人に建築が見られ、愛され、関心を持ってもらう中で、建築を再評価していこうといった意図があったものと思う。そういう趣旨から、建築探偵が活躍するミステリー作家やまち歩き、建築探検を趣味とする方たち、建築ジャーナズムやマスコミ関係者、さらには建築専門家を父に持ち異分野で活躍する方など、建築の周辺で一般人の視点から建築を見ている人たちの座談会やインタビューが5編ほど載せられており、いずれも興味深い。特に大山顕氏は最近BSテレビなどでも活躍し、また住宅都市整理公団のサイトでも有名だが、初めて氏の背景や考えなどを読むことができ、興味深かった。
「国土コピペ省」が「建築ファン」世界の面白サイトに紹介されていたけど、Kさん当然知っているよね。いよいよメジャーデビュー? あ、建築学会はメジャーじゃないか。
- 建築というのは、鑑賞する人間が自分の足で、自分の速度で動いていくことで感じるものだということ。・・・中に入って歩き回って、触ったり、匂いをかいだりして、五感を使って感じるものですね。されにさらに自然の条件が加わり、晴れたときに見た人と、雨の日に見た人では全然感じるものが違ったりします。鑑賞者の資質と偶然の要素が必ずついて回る、というのが面白いです。(P009)
- ノスタルジーだけで何かの対象に向き合うのは、何も見ていないのと一緒だと思うのです。・・・ちょっと厳しい言い方をすると、同潤会の形が本当に良いと感じて、あれを良いと言っている人は、どのくらいいるのだろうかと思います。(P013)
- 何を準備せずにまちへ出ても体験が表面的になってしまうと思います。でも、そこに誰かが入ることによって、もしかするとその見え方は変わるかもしれません。その役割を担うのが町のソムリエです。(P029)
<読書リスト>へ戻る
■ 変革期における建築産業の課題と将来像 (2007.11.19)
シリーズ/日本建築学会叢書6
書名/変革期における建築産業の課題と将来像
副題/その市場・産業・職能はどのように変わるのか
編集・著作人/日本建築学会
出版社/日本建築学会 出版日/2007年9月1日
頁数/216P 価格/1800円+税
書籍コード/ISBN978-4-8189-4705-4 C0352 \1800E
いつもお世話になっている三宅先生が執筆者の一人として参加したというので先生から格安で購入。しばらく積読状態だったが、ようやく読み終えた。先生は「2章 建築市場の現状と将来」の中の1節「住宅需要の推移と今後」を担当。内容はいつも論文等で読ませていただいているものだが、図表がきれいに印刷されている。
それはさておき、全体は4章からなる。経済社会情勢の変化から建築市場や建築産業の変化や国際比較、国際化の影響をデータを駆使して解説する1章。建築市場の将来を見越す2章。PFI等の契約形態の多様化や請負、下請け体制の変化や業際化など建設産業の現状と将来を論じる3章。そして、建築産業の変化に伴って多様化・広域化する職能を論じる4章。
それぞれとも興味深いが、各章に共通するのは、フローからストックの時代、新規建設からコンバージョンや経営等と密接に関わるFMなど建築界がまさに変革しつつある中で、いかに追随していくかという視点だ。今までの延長ではありえない。教育も含めて、建築は大きく変わらなければならない。
- 建設産業は経済活動や社会活動、生活活動から発生する空間・建築という基本的な需要に対応するところに本質があり、その意味では社会の多様な需要に臨機応変に対応するという特質がある。(P46)
- 豊富な新築需要を前提とした、単一機能養成型の教育を1万人規模で行う大学の教育体系は今後見直されるべきであり、・・・多様なニーズに応えたさまざまな職能をめざした新たな教育コースを創造し、その職能を活かす職業体系の確立を建築界全体で戦略的に進めていくべきである。(P213)
<読書リスト>へ戻る
■ 現代建築に関する16章 (2007.11.10)
書名/現代建築に関する16章
副題/空間、時間、そして世界
著者/五十嵐太郎
出版社/講談社現代新書 出版日/2006年11月20日
頁数/269P 価格/740円+税
書籍コード/ISBN406-149867-3 C0252 \740E
東北大学准教授、五十嵐太郎氏の建築批評を読む。語りおろし形式で、あるNPOのために語った内容をテープ起こしして収録したものとのこと。もちろん講演にあたっては、下調べ等は行うのだろうが、それにしてもウィトルウィウスの建築書からレム・コールハウスやヴェンチューリ、チェミ、さらには青木淳やみかんぐみ、妹島和世に至るまで、古代建築論から現代建築に至る古今東西の様々な建築を視野に入れて、自在な立ち位置で論ずる建築論には圧倒される。しかもそれがけっして偏狭に陥らず現代という時代の中を疾駆しているから見事だ。
全体は大きく3部に分かれ、「第1部 かたちと環境をめぐって」では、形態と機能やスロープ、さらにはレム・コールハウスにおける消費社会と建築を論じた章などで構成される。また「第2部 住むこと、そして日本という空間」は、縄文と弥生に分類する日本建築論から黒川紀章や磯崎新を論じ、さらに現代社会の表象としてのスーパーフラットに言及する。中でも身体論が面白い。最後の「第3章 建築はどこへいくのか」は、歴史や記憶、場所と景観、ビルディングタイプなど建築の成り立ちに視座を置きつつ、次第に情報やメディアなど、建築と関わらないかのような現代社会の様相との関連性を論じ、モニタとしての建築にたどり着く。
とらえどころのない現代建築をさまざまな視座から見ることでその向かおうとしている方向や存在を明らかにする。面白く読ませてもらった。
それにしても、一番記憶に残ったのが、建築少女研究会とはいやはや私もわかりやすい。
- ベルナール・チュミ・・・は・・・形態と機能の断絶を指摘しています。・・・形態は機能に従うという言葉は、つくり手の視点が強いのにたいし、チュミは使う人の側に近づいている。(P15)
- 20世紀の建築は、「空間」がキーワードになるのですが、空間そのものは実体はないというか、虚の部分ですね。それを建築史の中にたどっていくと、バロックあたりに萌芽があるわけです。(P34)
- 街づくりというとき、ほんとうのただの市民に置き換えると、どうも違う。・・・住民といっても、ある程度は空間のリテラシーを学んだうえで関与してもらうことが必要でしょう。(P67)
- エアコンは、場所性をなくしてしまうだけではなく、外部がなくなって、巨大な内部空間に人がうごめいているような状態をもたらします。・・・チューブのようにつながった資本主義の空間です。これは奇妙に明るくて、どこか恐ろしい世界ではないでしょうか。消費の収容所−要するに自発的に資本主義に囲われた人が、もはや外部の場所すら求めない。そのなかで満足してしまうような一種の楽園。(P86)
- 情報技術の発展によって、建築を成立させる基本的な要素である壁をなくし、流動的な空間が想像されているのです。(P219)
<読書リスト>へ戻る
■ 季刊まちづくり15 (2007.10.25)
書名/季刊まちづくり15
出版社/学芸出版社 出版日/2007年 6月 1日
頁数/130P 価格/1600円+税
書籍コード/ISBN978-4-7615-1226-2 C0352 \1600E
「季刊まちづくり15」は6月1日発行。地域遺産という言葉に惹かれて買ったものの、なかなか読む気になれなかった。「季刊まちづくり」は内容が専門的で難しすぎるということもあるけれど、それ以上に報告される事例やその考察がどれも同じような内容・展開で、読んでもすんなり頭に入ってこない。単に取組をなぞり持ち上げるだけでなく、一度本当にこんな活動に未来があるのか、意義があるのかを真剣に批判的に見詰め直し考えてみることも必要ではないか。
「地域遺産」という言葉に心が惹かれたと書いたとおり、個々の取組には関心もあるし地域ぐるみの活動や地域リーダーの活動力・展開力には大いに頭が下がる。しかし、・・・もう飽きてしまったのかもしれない。またはコンプレックスが頭を持ち上げたのかもしれない。もっと頑張らずいい加減で快適なまちづくりはできないものか。50年、100年のスパンで見直したとき、その活動にどんな意味が生まれるのか。興味がある。
安心院の事例や喜多方の事例は興味深い。松代や小熊邸、上越市などの活動報告も大いに参考になった。またイタリアやEUの動向も。しかし一番興味深かったのは、古民家再生に取り組む楢村徹氏のインタビューだった。肩に力を入れない自然体の話が一番心に届いた。
- 地域遺産は自然資源が基本にあるが、自然に淘汰された歴史資源や文化資源が大きな比重を占める。そうした地域遺産は、遺産=ヘリテージとして将来に承継されるべき『時間資源』であり、持続可能な地域発展の資源としての評価が重要である。・・・一方で遺産を実際に支えてきた地域は、産業やコミュニティの衰退により危機的な状況にある。地域資産は資源融合体として意味あるものだが、相互の繋がりが断たれると価値や力が損なわれるものが多い。(P14)
- 地域遺産を残すための活動をするということは、別な地域遺産を創っているのだと思っている。(P57)
- NPOが(地域資源に関わる)事業を行なう第一のメリットは、NPOが行政や営利法人以上に専門性を持ち、かつ、事業にともなう公益性を継続する力を持っていることである。・・・第二のメリットは、NPOが事業の成果をより多くの公益目的に展開できる可能性を秘めていることである。行政は、法的に組織の役割が決められていたり、行為が予算の範囲に限定されていたりするので、事業の成果を公共のために幅広く展開することは、できそうでできない。(P59)
- (楢村徹氏)私自身は、修景で全部綺麗になってしまうことには、若干抵抗もある・・・分かりやすく言えば、みな同じになるのはかえって気持ちが悪い。多様性があって、いろんなレベルがあって、お金持ちも一般の人もいる。だから、いろいろな方法論があっていいと思っています。(P79)
<読書リスト>へ戻る
■ 子どもを育む住まい方 (2007.9.28)
書名/子どもを育む住まい方
著者/小伊藤亜希子・中井孝章
出版社/大阪公立大学共同出版会 出版日/2006年 3月31日
頁数/91P 価格/800円+税
書籍コード/ISBN4-901409-20-4 C1352 \800E
著者の小伊藤さんには、今年の建築雑誌4月号で「子どもの居場所から見た住まい」を読んで以来注目していた。今回、仕事でお会いできる機会があり、小1時間ほど色々なお話しを聞かせていただいた。その際にいただいたのが本書。100ページに満たないブックレットで、第1章・第2章は教育学の中井氏が執筆。人間の成長に伴うテリトリー形成能力の発達や現代家族論から住宅の間取りや住まい方を考察する前半はやや難解だが、小伊藤さんの執筆された第3章は、本人家族の住宅経歴からの考察や住宅間取り上にプロットされた住まい方調査の結果も豊富で、平明に読むことができる。
中井氏の家族と住まい論からは、山本理顕の「岡山の家」と難波和彦の「箱の家」を比較しつつ、住まいの空間はそこに住む家族がテリトリーを切り取って住み込んでいくものだと主張する。そして小学生まで独立した子供部屋は不要であり、思春期でさえ、狭く最小限の家具や物が整えられてあれば十分。その代わり、みんなが空間を切り取っていく共用の空間が必要であり、そこでお互い気配を感じつつ好きなことをして過ごすことが重要だと言う。建築家の天野彰の言葉を引用し、「従来の『間取り』という発想を『場取り』へとシフトすることが必要」(P55)というのは面白い。
一方、小伊藤氏が主張するのは、LDKで家事等を行う親から子どもを常に見守ることができるよう、LDKと連続して部屋が連なる間取りが望ましい、という点。単に見守りだけでなく、収納や子どもの成長、子育てネットワークの観点からも、連続室の存在、そしてできるだけLDKを広く使うことができるような工夫が必要だと言う。母親らしく具体的で説得力ある提案には、小伊藤氏の人柄も偲ばれて微笑ましい。
- 家が借家であったからこそ、知り合いや気の合った者同士が近くに住み、お互いに親密な交流をすることができた。・・・地域コミュニティは、わが国特有の借家文化の所産なのです。(P4)
- 近代家族の終焉した現在では、家族は家族しなければ家族にはなり得ません。(P33)
- 住み手の立場から住まい方(というソフトウェア)を考えることは、・・・建築家から「器としての住まい(ハードウェア)」を与えられることと同義ではないはずです。・・・重要なのは、住み手が経験則を頼りに自覚を持って住まい方を考えていくことなのです。(P45)
- 家族の人たちが自分の好きなことを行いながらも、できるだけ、ただ同じ空間に一緒に居ること、・・・もっといえば、家族の一人ひとりがその同一の空間の中に自分の居場所を持つことこそ、これからの家族の住まい方であると思われます。(P54)
- LDKを一体化し、さらにできるだけ連続室を確保するということでした。・・・このような改装をする理由は、乳幼児の居場所が居間まわりであるという事実、帰宅後たくさんの家事をこなしながら子どもに目配りし、少しでもふれあいを持ちたいという思いがあると思われます。さらに特徴的だったのが、友人など、人が集まる空間としてのLDKの存在でした。(P87)
<読書リスト>へ戻る
■ 「環境建築」読本 (2007.8.30)
書名/「環境建築」読本 副題/地球と暮らしのしくみから建築のデザインを考える
編著者/日本建築家協会 環境行動委員会
出版社/彰国社 出版日/2005年10月10日
頁数/243P 価格/1905円+税
書籍コード/ISBN4-395-00774-0 C3052 \1905E
昨年から、仕事でCASBEE(建築物総合環境性能評価システム)に関わっていることもあり、本書を読んでみようと思った。これまでも環境共生住宅に関する解説本などは読んだことがあったが、トータルのイメージはわかっても、その方法論は千差万別で、OMソーラーを読めばなるほどと思い、北方住宅の記事を読めばなるほどと思いつつ、絶対的な解は見つからない。そんなもんだと思いつつ、あまり期待することなく読み始めた。
ちなみに本書は、JIAが主催した環境建築セミナーの講義記録である。このため内容は非常にわかりやすく実感できる内容となっている。講座は全部で8つ。
1.CO2の6%削減の意味を読む 2.ライフスタイルから省エネルギーを考える 3.都市の余った「床」を知恵と工夫で使い回す 4.熱の流れと循環のデザインを考える 5.換気によって室内環境をつくる 6.開口部から省エネルギーを考える 7.脱化石燃料の可能性を探る 8.足下で眠っているエネルギーを活かす
それぞれどれも面白く興味深い内容だ。冒頭の序で「環境建築は現在第五世代に入っている」(P8)として、2000年以降のCASBEEを中心とする第四世代から、さらに「複合的・総合的な環境建築手法へと統合される時代」(P9)になってきていると述べられている。本書を読んでも、換気や日照、ライフスタイル、地熱利用などの個々の技術が既に十分実用可能なレベルにまでなってきており、これらを複合的・総合的に利用し、環境に配慮した建築物を設計・建築する時代になってきたことを感じさせる。また地球温暖化の進行からも早急な対応が求められる状況にある。これからは環境建築が面白い?!
それにしても学生時代、建築環境の科目がどうにも退屈で面白くなかったことを思い出す。多分、こういうことだろう。入学当初は建築家を夢見てデザインが最大の関心事だった。自分の才能に挫折感を味わった後も、なんとか機能的・快適な建築をつくることに関心が向いていた。そしてそれは、間取りや吹き抜けなどの空間構成や動線解析などで実現できると思っていた。こうした空間を支えるための構造の重要性はわかっていたが、実は建築物の快適性は建築設備や環境設計で保たれていたことまで理解をしていなかった。設備設計なんて機械や電気の専門家がやってくれるものだと思っていた。
最近、建築環境の先生方とお会いする機会が多い。つくづく、他の分野から見ると地味な建築環境の分野に学生時代から取り組んできた方々の先見の明に感服する。時代はまさにあなた方の活躍を期待するようになってきたようだ。
- 建物の役立ち方・建物がもたらす価値に対価(サービス)を払ってもらう様態に産業のあり方を変えていきましょうということです。これが、建物ストックの総量がフロー(新築)の量に対して圧倒的な量である時代の産業のあるべき姿だと思います。(P71)
- インフィルのリースというアイデア・・・インフィルを動産化するという方針(P72)
- 今日エネルギー問題というとき、それは「資源性」のことである。・・・それを表す概念が「エクセルギー」である。・・・冷暖房のシステムも人体もエクセルギーの消費があって成り立っていると理解することができる。(P123)
- 換気装置はほこりに弱く連続使用にはフィルターが必要です。羽根にもごみが付き風量が落ちます。・・・住宅の設備として長期的にみれば、機械換気は非常に信頼性が低いのです。(P137)
- これまで主に断熱・気密ということろに重点が置かれてきましたが、特に業務用建築の場合には、エネルギー消費からいってもむしろ日射遮断に重点を置かないといけないことは自明です。(P179)
- 興味深いのは人類全体でわれわれが呼吸で出しているCO2の10倍を化石燃料を燃やして出していることです。これはCO2換算で世界平均あたり約10人の奴隷というか、便利になる道具を持っていることを意味しています。(P206)
- 通常、大地の温度は深度100mで十数度になります。・・・大地は自然の熱源の中で、冬には最も高温の熱源の一つで、夏には最も低温の熱源の一つということができます。(P211)
<読書リスト>へ戻る
■ 美しい都市・醜い都市 (2007.8.26)
書名/美しい都市・醜い都市 副題/現代景観論
著者/五十嵐太郎
出版社/中公新書ラクレ 出版日/2006年10月10日
頁数/270P 価格/760円+税
書籍コード/ISBN4-12-150228-0 C1236 \760E
景観法が制定されて大分経った。景観法を活用した景観形成の動きが全国で活発に繰り広げられているという話はあまり聞かない。最近の話題としては、梅津かずお邸の景観騒動が新聞紙上を賑わせたが、マスコミの論調はどちらを支持するものだったのか?景観保護や景観規制に対して、世論はどこか及び腰な感じを受ける。
新進の建築評論家・五十嵐太郎の景観論は、どちらかといえば規制的な景観コントロールに否定的だ。全体主義的、戦前の時代復古的な印象を抱いているようだ。加えて、公共投資誘因の理由付けとしての役割。景観は規制するものではなく、評価し感じるものである。景観総体を美的感覚で感じる対象とすれば、そこには無限の可能性が生まれる。規制や偏見で景観を歪めてはいけない、と訴えているようだ。
全体は2部構成。1部は景観を真っ正面から論じた6編の評論。2部は「計画とユートピア」と題し、香港、上海などのアジア・メガロポリス、押井守のアニメの世界、人口都市・幕張、さらには都市伝説や平壌を論じる。一見関係のなさそうな評論だが、都市がいかにできていくのかを描きつつ、景観規制が本当に美しい都市を生む仕掛けなのかを問う。
あとがきで、「筆者の価値判断がゆれうごき、曖昧になる場面も少なくない。」(P268)と述懐しているとおり、明確な答えを提示しているわけではない。ただ、伊藤滋らが押し進める「美しい景観を創る会」の活動に異議を唱え、日本橋復元を謳った首都高速移設に疑問を呈する。景観という耳障りの良い言葉が、社会の管理化に通じているのではないか、という筆者の疑念は案外正しいかもしれない。同じくあとがきの「日本の美しい景観論者以上に、自分がファシズム的なデザインの管理を欲望しているのかもしれない。」(P268)という吐露こそ、筆者の目の正しさを保証しているとも言える。
ところで、第2章「景観を笑う」の冒頭に、春日井市役所から春日井駅に至る地区の「だらんと弛緩した」景観の話が出てくる。そしてミラン・クンデラの「笑いと忘却の書」の悪魔の笑いが引用される。まさに私も同地区を通るたびに同じ感覚に捕らわれる。「風景が壊れている」「景観が存在しない」。多分、広い道路に微妙な密集度(空隙度)で無秩序に建物が建ち並ぶ状況がそう感じさせるのだろうが、五十嵐氏も同じ感覚を持っていたことが何となくうれしい。ミラン・クンデラのファンだったことも。と思ったら、こちらは、編集部の担当者の示唆だったようだが。
- 建築を専門に学んでいると、いつしか新しい/古いという要素は重要な判断材料ではなくなる。その代わりに、空間のプロポーションやヴォリュームを観察するだろう。・・・建築を学ぶとは、こうした価値観を身につけることである、一種の洗脳と言えるかもしれない。(P19)
- 景観とは、ある記号的な存在だけを排除すればいいのではなく、総合的な環境の要素が決定するのではないか。(P33)
- 政治的に正しい文面に彩られた景観重視の方針。しかし、個人的には、国家が制度として美を語ることに違和感を覚える。・・・正義を掲げて戦争を続ける国家、健康を賞賛しながら身体の管理を押し進める行政、あるいは安全な社会をめざして監視と排除に向かう社会と似てないだろうか。美学とは感性の問題である。美と言えば、各々が勝手なことを想像するはずだ。(P35)
- 景観論争なのに色や高さという記号だけが注目され、肝心のデザインが対象となっていない。(P117)
- コールハウスは、地球全体が都市化した結果、逆説的にアーバニズムが雲散霧消するのではないかという。・・・そこで彼は、新しいアーバニズムがあるとすれば、秩序と全能にもとづくものではなく、不確定性を舞台にのせ、境界線を否定し、名前のつけられない混合体を発見することだと指摘する。コントロールなき世界の暴走。(P167)
- 日本は、欧米において未来テクノロジーの国として表象される・・・テクノ・オリエンタリズムは、時間軸上の未来を指示するテクノロジーと空間軸上の遠さを意味するオリエンタリズムから構成され、二重の他者として機能する。(P178)
- 都市伝説という想像力は、均質な空間を異化させ、使い手の側に取り戻そうとする行為なのだ。(P221)
<読書リスト>へ戻る
■ なぜ無責任な建築と都市をつくる社会が続くのか (2007.8.23)
書名/なぜ無責任な建築と都市をつくる社会が続くのか
著者/中崎隆司
出版社/彰国社 出版日/2007年6月30日
頁数/187P 価格/1600円+税
書籍コード/ISBN978-4-395-01204-6 C3052 \1600E
先日書店に行った際、中崎隆司氏の書かれた本をいくつか見た。翌日、図書館に行ったら新刊書コーナーに本書が並べられていた。手に取ってみると、けっこうまともな感じ。一度読んでみようと思った。
著者略歴を見ると社会学科卒業とある。でも書かれている内容、視点は、建築専門家のそれだ。共感できる論調。ひとことで言えば、タイトルのとおり、小泉改革以降の自由主義経済が今の貧困な建築・都市環境をもたらしている、ということか。
ただし、本書は3つの章に分かれて、全部で18の小論が集められた評論集といった形を取っている。どこにも断りはないのだが、どこかで発表した評論を集めたのだろう。そのため、各評論間であまり連続性が感じられない。東京筑地の話、PFI、指定管理者制度、ゲイジュツによる活性化の話、銀座ショールーム、スポーツクラブハウスによる地域活性化など、様々な切り口、様々な話題が次々と披露されており、それぞれは共感する話題も多いのだが、もう少し掘り下げた論が聞きたいものもあれば、何が言いたいのかイマイチわからない話もある。できれば著者のまとまった建築・都市論をどこかで読みたいと思った。
- 建物は現在生まれていない未来の人間にも影響を与える。だから未来の人間のことも考えなければならない。建築は未来の可能性をつぶすものであってはならないのだ。(P4)
- 建築主は施主との関係だけではなく、常に社会とのつながりのなかで建築を考えなければならない。(P28)・・・狭小住宅を批判して。
- 現在の日本全体では、人口の減少が始まっている。また地価を投機の対象とする時代でもない。成長と拡大から、成長を管理し、均衡を考える時代に入っている。開発利益を都市全体にどう還元するかという視点が、都市開発には欠かせない。(P60)
- 日本の法律と政策は、地域を日本化するためにある。・・・植民地化と同じだ。(P94)
- 公務員はマネジメントに優れているのかもしれないが、停滞している地域を活性化していくことが求められている現在、必要とされているのはプロデュースだ。・・・プロデュースは優先順位を決めることであり、切り捨てを行うことである。行政はそれができない。(P125)
<読書リスト>へ戻る
■ 「もの」の詩学 (2007/7/19)
書名/「もの」の詩学
副題/家具、建築、都市のレトリック
著者/多木浩二
出版社/岩波書店 出版日/2006年1月27日
頁数/309P 価格/1100円+税
書籍コード/ISBN4-00-600153-3 C0122 \1100E
「生きられた家」で建築物と人間存在との関係を書き表した思想家、多木浩二による、家具や美術品、建築物などの「もの」と人間の身体、文化、思考、そして政治との関係を考察した名著。初版は1984年というからもう20年以上も前のものである。
第1章は、家具の変遷から身体の社会的役割を読み解く「『もの』と身体」。他者に見せることが意識された「儀礼的身体」のための家具から「快楽の身体」のための家具の誕生。そして両者の関係性の中から、人間は自らの身体を「象徴的身体」として扱ってきたことを解き明かす。
第2章は、美術館・博物館の発生と博覧会の誕生の経緯を追い、「もの」がいかに人間に意識され分類されてきたかを考える「コレクションから展示へ」。ここでは、自然物・人工物が雑多に集められることで世界のコスモスを表現した中世のコレクションから、自然物と人工物の分類や美術品への意識の始まりと美術館の誕生。さらに、フランス革命以降の歴史とともに語られる祝祭としての博覧会と建築物としての博覧会会場の意味などが歴史とともに考察されている。
第3章の「虚構の王国」は、19世紀後半の遅れてやってきたバイエルンの最後の王ルートヴィッヒ二世の虚構の城づくりを通して、キッチュの誕生や近代における建築の意味の変化などを考察する。
そして第4章はヒトラーが造り構想した巨大建造物等を通して都市の意味を考える「ヒトラーの都市」。ここではナチスの持つ伝統回帰の政治と建築物の様式(バウハウスの否定など)やプロバガンダ建築としての巨大建造物を通して、「ヒトラーの都市」は実は大衆社会のありざまを具現化したものであったことを暴いていく。
これらの各章は一見お互いあまり関係がないようだが、人間の意識や社会、政治等と、身体が接する「もの」としての家具や生活の場、収蔵・観賞の場、祝祭と高揚の場としての建築物や都市との関係を一貫して見つめ考察する著者の思想が、多様な対象や時代、関係を越えて、主題を変えつつ繰り返し変奏曲のように奏でられ、興味深く面白いし心地よくもある。ただし非常に難解。どこまで理解できたかは大いに疑問。
- たしかに「もの」は言語的な意味や社会的関係からみれば表層の世界である。しかし同時に「もの」は言語や所作よりも深層の世界、意識化できない世界もかたちづくっている。ほとんど気づかれないところで、文化の地層をゆっくり変えていくものなのである。(P53)
- イギリスのジョン・デイは、ヴィトルヴィウスから建築はたんなる物質的な構築ではなく、数学的思考の結晶であり、・・・この数学的思考は直ちにピタゴラス的秘教主義につながることを読みとり(P176)
- ロージェの近代建築への出発点としての意義が大きいことはいうまでもないが、同時に人間が無意識を含んで生きていること、それが「建築」のイメージの深層を形成していることへの知覚が忘却されるに至ったことを示す指標でもあった。このように考えることが近代において主流となり、人間に神話的なものを考える能力を失わせていくのである。(P177)
- いわば具体的、現象的な都市に対して一種の超(メタ)都市として位置づけられるのが「ヒトラーの都市」である。(P251)
- 独裁者の定理は、独裁の社会が、独裁者個人の資質によって成立するのではなく、ある社会がほとんど無意識に仮定しているいくつかの公理、つまり慣習化した道徳や理想の基準などによって、機構として論理的に発生するものだということである。(P262)
- 大衆によって生きられるファシズムつまり「ヒトラーの都市」とはこのような構造をもち、・・・大衆を共同体として一体化させたのである。現実の都市、建築を考えるときも、この生きられる「ヒトラーの都市」をはなれてはありえない。(P263)
<読書リスト>へ戻る
■ 路地からのまちづくり (2007/6/29)
書名/路地からのまちづくり
編著/西村幸夫
出版社/学芸出版社 出版日/2006年12月30日
頁数/269P 価格/3000円+税
書籍コード/ISBN4-7615-3147-9 C0052 \3000E
愛知県からは碧南市の大浜地区が事例として取り上げられている。地元建築士会の碧南支部が活動を始めるごく初期の頃からいろいろな話を聞いてきた。その後、この項を執筆している川端さん、石田さんが積極的に関わり、活動に理論と方向性が見えるようになってきた。
しかし、その後発生した耐震強度偽装事件を契機とした建築基準法の厳格化の影響で行政が多忙となり、個別地区の状況に関わることが難しくなってきている。最近の碧南の状況もあまり聞かない。この本で様々に取り上げられている、路地の形態とコミュニティを活かして地域の安心・安全と精神文化を守るための建築行政上の方策を全国各地で展開していくためには、建築行政の現場にもっと余裕と工夫が必要とされるだろうに、世の中はますますそうした状況から遠く離れていくように思う。路地をつぶしているのは、建築基準法第42条だけではなく、コンプライアンスという名の非人間的な社会システムかもしれない。今までも路地は、近代化に名を借りた非人間的なシステムの中でその存在を否定され続けてきたのだから。
本書では、西村先生の序説「今なぜ路地なのか」に続いて、路地の魅力や地域に果たしてきた役割、その歴史などを4名の研究者・実践家が綴った第1部「路地の復権」が続き、第2部で「路地のまちづくり」と題して11地区の現況報告や活動事例等が並ぶ。碧南市大浜地区もその一つとして取り上げられている。他の10地区は、神楽坂、谷中、向島、十条、祇園南、空堀、法善寺横丁、飯田、諏訪、そして尾道。初めて聞く話も多く、どの地区の記事も面白い。また第1部では、「4 路地は、どうしてできたか」(伊藤裕久)が平安期から戦後の都市化に至るまで、様々な時代における路地の形成過程を述べており興味深い。
第2部の事例を踏まえ、第3部「路地を活かすために」では、路地を保存しつつ、老朽家屋の建て替えを促し、地区の防災性・安全性を高めるための具体的な方策が取り上げられており、実際のまちづくり活動に大いに参考になる。建築基準法第42条第3項但し書きの活用、第3項道路指定、そして第86条第2項の連担建築物設計制度の活用が主な方法だが、既に取り組んでいる地区では、それぞれの実情に応じ様々な工夫や条件付加等をしており、参考になる。また、「路地を活かして減災を」という副題の付いた室崎先生の路地防災論や歩行者の視点からの交通工学を提案する司波先生の論文も興味深い。
今、建築行政は、冒頭に書いたような理由で、非常に辛い状況にある。路地からのまちづくりなどと悠長なことを言っておれない空気が強い。しかし路地にこそ日本らしさ、人間らしさが残っていることもそのとおりだろう。今こそ、日本の良さが路地とともに切所に来ているといえるかもしれない。
- 歴史的にみた路地の多くは、それぞれの時代の都市住民の生活とともに生成されては消えていく存在であり、・・・むしろ大事なのは、・・・私的な生活空間の延長線上に、建築と一体化しながら生み出された公共性をもつ都市空間としての路地の独自性を見いだすこと、そして、都市形成における路地のもつ普遍的な役割を再認識することであると思う。(P60)
- 一級品の美味しいモナカは、餡が良くできているので皮は薄くなっている。ところで、わが国の市街地もこの美味しいモナカのようでありたい、・・・皮の部分にあたる外周道路などを厚くするのではなく、餡の部分にあたる街区の中の建物や路地などを良くして、一級品の安全な市街地にしよう・・・。私は、そのための解決策として、市街地における防災のための「秩序回復」と「新陳代謝」をここで提起しておきたいと思う。(P218)
- 住宅や路地といった単体のもつ弱さを、集団的な構成と秩序によってカバーするという、ゾーンディフェンス的な着想が、・・・求められる。(P224)
- 自動車を抑制し、歩行者を優先化することは、街を路地化し、魅力の増進につなげる第1歩である・・・。この擬似的路地の街を一歩進めて、次のようなことも想起される。広すぎる道路等の公共施設を縮小させ、適正な路地や宅地を再構成する。これは、公共用地拡大のために使われた区画整理という事業手法を用いて、その逆、つまり公共用地を縮小して宅地をより大きなものにする事業である。(P258)
- 路地は、都会におけるさんご礁、揺りかご、インキュベータのような役割を果たしているのではないだろうか。・・・都市社会学者のジェーン・ジェイコブスも、都市がサステイナブルであるためには、路地がなくてはいけないと指摘している。すなわち路地をひたすら消し去ろうとするまちづくりではなく、路地も活かしたまちづくりが求められていると思う。(P261)
<読書リスト>へ戻る
■ まちづくりと景観 (2007/5/13)
書名/まちづくりと景観
著者/田村 明
出版社/岩波新書 出版日/2005年12月20日
頁数/231P 価格/740円+税
書籍コード/ISBN4-00-430985-9 C0236 \740E
横浜の景観行政をリードしてきた田村明氏の著作ということで、横浜の景観施策を中心に書かれているかと早合点して、1年以上も前に出ていたにもかかわらず、読まず嫌いでここまで来てしまった。今回ようやく読んで、その内容の素晴らしさにびっくりした。景観行政や景観を学ぼうとする学生にとって最適の教科書と言える。教科書としての内容に加え、文章がわかりやすく美しい。特に小布施の取り組みを題材に景観とは何かを語る序章「都市景観への取り組み」は秀逸。この文章を読むだけで、景観を守り作るということはどういうことか実感される。この一文だけでも、多くの人に読んでほしいと思う。
序章を除き、全9章の構成だが、「美しい景観とは?」という第1章から始まって、景観の本質と景観を守りつくる主体としての市民の責務、景観を構成するもの、そのための方策とまちづくりなどが整然と綴られている。なかでも「都市景観の構造」として説明される6つの次元は、その本質を明確に描き出しており、納得される。
- (1)狭義の視覚的景観 (2)物的に存在するが見えない景観(地下、空中) (3)空間利用の動態景観(生活、イベント) (4)都市構造と土地利用原理(街路、施設配置、土地利用規制) (5)法政、社会経済システムなどの見えない景観 (6)市民意識、ココロの景観 (P122)
景観は「関係性」であり、我々の「ココロ」の反映である。日本の景観が醜いのは、我々のココロを写しているから、というのは確かにそのとおりだと思う。そのことを知らない、教えていない。だから日本には景観が、ココロがない。
- 「まち」の景観は、ただ金をかけてつくられるものではなく、互いに自分の敷地の外まで目配りをした関係性のなかで形成されrた。(P5)
- アメニティは「快適性」と訳されるが、あまりよい訳とはいえない。英語ではthe right things in the right placeと説明され、「好ましいものが、好ましい場に」と訳せる。・・・つまり関係性の価値を重視するのがアメニティ(P39)
- 地域は生活者が好ましく生活していることが大切で、・・・生活者が誇りを持ち、愛情をもって育てた景観でなくては、他人を感動させることはできない。(P46)
- ヒトへの無関心は地域への愛情を育てない。優しい心が薄れたことが、「まち」を美しくなくした大きな原因のように見える。(P72)
- 都市景観は市民がつくる作品(P87)
- 景観は「まちづくり」の入り口であり、結果でもある。景観は見えるから分かりやすいし、景観に関心をもてば「まち」への意識を高め、「まちづくり」にかかわろうとする。(P105)
- 地方分権は、中央政府と自治体間の権限争いではなく、市民自身の問題として自覚されなくてはならない。(P140)
- 不動産の証券化も進んでいるが、土地への実感を失わせ、問題のある制度だ。(P168)
- 人に優しい「まち」は美しい「まち」だ。(P178)
<読書リスト>へ戻る
■建築雑誌 200704 (2007/ 4/13)
書名/建築雑誌 200704
発行所/日本建築学会 出版日/2007年 4月20日
頁数/約120P 価格/1300円(税込)
「建築雑誌」最新号の特集は「住むための機械の未来」。「住むための機械」とはル・コルビュジエの有名な言葉だが、住宅が「住む」という機能のみを満たせばよいというのは、当時から懐疑的な批判はあったであろうが、現在の住宅は、そうした議論を超えて、「住む」と「住宅」の関係性を見直さざるを得ない状況になってきている。冒頭、石山修武と布野修司の「居住と住居のあいだ」と題する対談が、そのあたりを鋭く抉り出している。
- (石山)それを・・・住宅とわざわざ呼んでみても可能性が全然ないということです。・・・私は住宅という言葉はそれほど未来を示していないのではないかと思います。(P007)
その後で展開する各論も、いずれも興味深い。
最初の一橋大・佐藤彰彦の「"コレクティブな暮らし"は"住むための機械"を高性能化する」では、偶然の災害から始まった実体験としてのコレクティブな暮らしを紹介する。
東北工業大学の石井准教授の「グループホーム考―Σ(個)=グループ=家族?」では、日本のグループホームを福祉的、家族的な発想として、北欧の「独立した個人の集住体としての、住宅的視点からのグループホーム」(P013)という発想が、コハウジングやコレクティブハウジングにつながるという指摘が興味深い。「単に個人が集合しただけでは集合住宅と変わらない。いかに個をつないでいくかというつなぎ方(空間のあり方を含む関係性の構築)の追求」が必要になってくると指摘している。
また、大阪市立大学の小伊藤准教授の「子どもの居場所から見た住まい」では、nLDKスタイルを子育て世帯の利用実態から見直し批判と提案をしている。「機能分離が明確な欧米の住宅が住むための機械だとしたら、日本の住宅は、機能と空間の対応関係がフィジーな住むための器といえる」(P014)という指摘は示唆的だ。
その他、ホームレスのダンボールハウス(なんと、そこにも施主と建築家の分離が見られる)を追った「住むこと建てることの不一致」長嶋千聡(P016〜)、ゲストハウスという新しい賃貸形態の棲家を研究した「日本型ゲストハウスの現在―下流資産層は「非・定住生活を試みる」今一生(P018〜)、パワービルダーといわれる新しい業態の建売分譲業者を研究した「パワービルダー問題―ものづくり/売りのすべてをアウト・ソーシング化」岩下繁明(P020〜)なども住宅をめぐる新しい潮流として面白い。
また、東京大学の松村教授の「パッケージとしての『ハウス』の次に来るもの」の以下の記述も示唆に富み興味深い。
- まち並みのなかから大規模な住宅メーカーによるプレハブ住宅等を見分けるのは、・・・ほとんど無理だろうと思う。理由は簡単である。およそ住宅の外観を形成するすべてのものは、一部の例外を除いて、部品メーカーのカタログに載っている工業製品になっているからである。(P024)
- 生活を入れる「箱」に対する需要から生活を展開する「場」に対する需要への大きな変化が起こり始めている(P025)
- 新たな業の核となるもののひとつは、古典的ではあるが、「技」だと確信している。
<読書リスト>へ戻る
■ 耐震偽装 (2007/ 4/11)
書名/耐震偽装
副題/月に響く笛
著者/藤田東吾
出版社/imairu 出版日/2006年12月25日
頁数/446P 価格/1800円+税
書籍コード/ISBN4-903786-00-5 C0000 \1800E
元イーホームズ代表。耐震偽装事件の中心的人物として、一昨年の秋からしばらく渦中の人となっていた。イーホームズは何も疚しいことはやっていないと訴え続け、姉歯物件だけでなくアパグループ関係の偽装も発見告発し続けたのに、いやそれ故か、最後には耐震偽装とは全く関係のない罪で告訴され、イーホームズも確認検査機関の指定取り消しを受け、消滅した。
藤田氏が、耐震偽装事件の真相を本にする、という話は「きっこの日記」などで早くから聞いていたし、発行されたのも知っていたが、単なる恨み節が綴られているのかと思って何となく敬遠してきた。しばらく前、名古屋の大手書店で平積みされているのを見つけ、何となしに1冊手に取ってみた。そしてその内容の真摯なこと、迫真のノンフィクションと言ってよい作品であることを知った。その後はもう貪るように読み続けた。面白い。私も建築業界の端に生きる者として、今回の事件には並々ならぬ関心を持ってきたし、その背景を憶測したり、事件から浮かび上がる現実をこのブログの中でも書いてきた(「アネハ事件から見える3つの課題」他)。しかし所詮は外部から垣間見た憶測に過ぎない。その点、この作品はまさに渦中にいた人物が、その経験とその過程で感じ考えた思いを赤裸々に綴ったものであり、行政制度を考えなおすための資料としても、また歴史的・学術的資料としても価値があると言える。
作品中には藤田氏が送り受け取ったメールが頻繁に引用される。まさかこれらまでが偽造とは思えないことから、書かれた内容はほとんど真実に近いと思う。ほとんど、というのは、藤田氏という目を通した真実であって、神の目ではない、という意味だ。まさに渦中にいたからこそ見られなかった真実もある。それは、国土交通省の役人の目、ヒューザーの小嶋氏の目、偽装を行った姉歯の目、そしてイーホームズと同様、偽装を見逃した特定行政庁の目。これらの目をさらにいくつも重ねることにより、さらに真実の焦点はくっきりとしてくるはずだ。そんな第2、第3のノンフィクション「耐震偽装」の登場を期待したいものだ。
今になって思うこと。耐震偽装事件は姉歯などの一部の不心得者が起こした事件であることは間違いない。藤田氏が盛んに主張している国家の犯罪という指摘は、偽装可能なプログラムを認定してしまったことではなく、そのことを正面から見つめ対処することなく、ひたすら身の保全を図ったことによって、収まるはずだった事件を無尽蔵に拡大し、不必要なシステムを拡大生産し、過重な社会的コストを課すような社会にしてしまったことにある。最近、「法令遵守が日本を滅ぼす」という本が売れているが(まだ読んでいない)、まさに今回の国交省が行ったことは、その流れを助長し、ますますダメな日本にしていく行動だったのではないかと思える。藤田氏は確かにそう言っている、と思う。
さて、この藤田東吾という男。これから先、どういう形で社会にはい上がってくるか。その姿が再び見える時が待ち遠しい。
- 結果として、住宅局は逃げた。12時間に及ぶ悶々とした検討の時間を掛けて、尻をまくって逃げたのだ。(P054)
- この事件が発覚した後にも、行政や他機関では発見が遅れた理由を、「発見するのが難しいから」という単純な結論に落ち着かさざるを得なかった。(P057)
- イーホームズは、優秀な技術者集団と豪語してきた。しかし、個性の強い技術者の集団が、反面、いかに危機に弱いものか痛感した。・・・それでも、僕はこんなイーホームズが好きだった。(P059)
- 建築確認が全ての安全をチェックするとの幻想は、今回の事件で、国土交通省やマスコミが作ったもので、確認という行政行為は、限られた時間の中で、要所要所のチェックによる牽制効果を与えるのが実態だった。(P070)
- 耐震偽装事件の制度的要因を作り出し、事件の混乱を拡大させ、しかし、何一つ傷ついていないのは、役人とマスコミだけなのだ。この事実は明瞭に、役人とマスコミがこの国の情報を操作し、利益を得ている証であることを物語っている。(P129)
- 指定確認検査機関の業務は情報産業だと思う。確認、検査、評価自体は一つの作業としての行為を伴うが、この作業自体は形を生まず、作業の結果として判定できる審査や評価の情報を提供するkとtがアウト婦宇土の価値である。つまち、結果的に情報産業だと僕は認識していた。(P199)
- 小嶋は政治家を使って官僚を動かした。政治家と官僚はマスコミを使って情報操作を仕掛けてきた。僕は反撃するために情報リークをした。(P309)
- 堕落した日本のマスメディアは、一体、何を目的に存在しているのだと憤りを感じるばかりだった。(P330)
- 偽装を認識した建築主(デベロッパー)や国家が、人の命を無視して”隠蔽”しようとする行為こそが犯罪なのだ。(P392)
<読書リスト>へ戻る
■ 季刊まちづくり13 (2007/ 3/20)
書名/季刊まちづくり13
出版社/学芸出版社 出版日/2006年12月 1日
頁数/130P 価格/1600円+税
書籍コード/ISBN4-7615-1220-2 C0352 \1600E
久し振りに「季刊まちづくり」を読んだ。13号の特集は「コンパクトシティの可能性と中心市街地」。「コンパクトシティ」と題しているが、コンパクトシティについて書かれているのは、巻頭の地域探訪「青森発 コンパクトシティを選んだ北国のまち」だけで、あとは新まちづくり三法に関する記事が並ぶ。そして最も多くの紙面を割いているのが、高松市丸亀町商店街のタウンマネジメントの詳細な報告。
本号で一番面白かったのは、今号から始まった連載の「都市空間の構想力」。第1回は東京本郷のまちの成り立ちを、今も残るまちの痕跡などから探し出し検証するという作業を紙面で繰り広げている。わずかな道路中心線の食い違いや行き止まり道路、六叉路や公園の形から、まちが内包する歴史と文化を明らかにする様子はちょっとした推理小説のようでわくわくする。
また今号には、愛知県瀬戸市の銀座商店街の活動紹介と足助の小沢庄一さんへのインタビュー記事が掲載されている。よく知っているまちや人について書かれているのは何となくうれしい。
- もともと都市に中心があるということは、都市のもっとも重要な構造上の特徴である。それぞれの都市が魅力的な中心を誇り、外からの人を魅きつけてきた。(P12)
- まちづくりの唯一最大のゴールは「高松市民が集う憩う場所になること」である。(P42)
- まちづくりでは青写真どおりにまちをつくるのではなく、個別の行為が全体をつくるシステムこそ重要だと主張しています。(P59)
- ルールは本来、多くの人々が内的な行動規範として受け止めている状態の上に構築されるべき(P59)
- 景観まちづくりの優れた点は、景観という一見わかりやすい見た目の環境という形を取りつつ、実は人々の生活を取りまく総合的な環境の質へ目を向けさせる効果を有していることである。(P90)
- まちが内包する空間文化こそが、まちの構想力の原点なのである。(P106)
- まちづくりは、「まち」を見えるようにすることである。(P124)
<読書リスト>へ戻る
■ 地域再生の条件 (2007/ 3/ 2)
書名/地域再生の条件
著者/本間義人
出版社/岩波新書 出版日/2007年 1月19日
頁数/222P 価格/740円+税
書籍コード/ISBN978-4-00-431059-4 \740E
結局、筆者が挙げたかった地域再生の条件とは何だったのか、よくわからないが、「地域住民の発想と行動力に託す」ことが地域の再生と活性化のための唯一にして最大の方策である、ということが様々な角度からの考察と事例で繰り返し述べられている。同時に、国のこれまでの全ての施策が「百害あって一利なし」だったことをこれでもかこれでもかと書き立てられている。しかし、実はこれらの記述には、専門的な目から見ると誤りと偏見が多く(例えば、P16の住生活基本法に関する記述やP85のまちづくり交付金が施設しか対象としないという部分、P166の大都市法と住宅マスタープランに関する記述など)、その点で全体の信用度も落ちて見えるのが残念。
本間氏はマスコミ出身ながら、都市・住宅政策について、地道な調査に基づく慧眼に満ちた著作が多くあり、本書も期待して読んだが、少しがっかりした。それでも、大きな方向や視線は間違っていないと思うし、市町村合併に対する批判などは、私の少し前のentry「役所の消滅と地域への影響」と同じような指摘をしていると思う(私の方が浅い、というか現実に即し過ぎているけど)。
- 地域に工場を誘致したものの、工場だけ繁栄して、地域は崩壊したというのでは再生とはいえない。地域における人々の生活が豊かになってはじめて地域が再生したといえる(はじめにP6)
- それぞれの地域にその活路を見出す知恵と発想の転換があるかどうか、ということに尽きるのではないかと思われます。(P82)
- 日本経済も日本の企業も実はこのように、その外部費用を地域や地域住民に押しつけることにより、成長を遂げてきたのでした。(P114)
- 市町村自治体の組織のあり方・・・(建設や商工部門中心)・・・が、それでいいのかどうか、むしろ福祉部門を組織の核として見直す必要があるのではないか(P187)
- 地域が年々厳しい状況に追い込まれていっているのに、政策当局がその原因となった政策の失敗や誤謬から教訓を学ぶどころか、新たな政策・施策をあいも変わらず過去の延長線上でしか打ち出しえないでいる、・・・さらに、この期におよんでも、国にしたがっていれば間違いないと信じ込んで、ナショナルプロジェクトに追随するばかりの自治体が多い(P221)
<読書リスト>へ戻る
■ 犯罪不安社会 (2007/ 2/ 3)
書名/犯罪不安社会
副題/誰もが「不審者」?
編著/浜井浩一、芹沢一也
出版社/光文社新書 出版日/2006年12月20日
頁数/249P 価格/740円+税
書籍コード/ISBN4-334-03381-4 C0236 \740E
「実は凶悪犯罪の件数は減少している」という話はよく聞くが、浜井氏が執筆する第1章では、そのことを警察庁統計、人口動態統計、犯罪白書などのデータを元に検証する。そればかりでなく、少年犯罪の低年齢化も神話でしかなく、実は逆に高齢化している。いつまでも暴走族などの少年期非行から脱却できない、大人になれない大人が増えてきているという。にも関わらず、日本の治安が悪化していると感じる国民は増加の一途を辿っているし、政府や警察もそのように煽る。
その背景には、メディアの報道件数のみが異様に増加していることを統計データをもって指摘する。そしてさらにその背景には、1990年代後半からの犯罪被害者の権利擁護や支援の高まりが挙げられるという。芹沢氏が執筆する第2章では、宮崎勤の幼女連続殺人事件(1988年)におけるマスコミや評論家等の事件の扱い方と、小林薫の奈良女児殺害事件(2004年)のそれとを比較し、完全に事件に対する向き合い方が変わってしまっていることを指摘する。
- 事件の謎解きへの欲望があって初めて、不可解な事件は好奇心を刺激する。だが、加害者への共感とともにそうした欲望が失われれば、不可解な殺人事件は単に不気味なだけである。そして、不可解な犯行動機に怯えを喚起されて、少年たちはメディアの中で怪物化していったのだ。(P121)
続く第3章では、芹沢氏が、近年急速に全国に広まっていった、地域防犯活動に言及する。地域のボランティアとして行われ、参加者に生きがいを生み、良好なコミュニティづくりにつながる、と信じられている地域防犯活動が、実は相互不信社会を醸成し、不審者を排除する装置に変換していく。不審者とは、実はリストラやストレスなどで社会からこぼれ落ちたホームレスや精神障害者などの生活弱者だ。
浜井氏が執筆する第4章が興味深い。刑務所の実態レポだ。刑務所の入所者は近年実際急増しているのだが、その多くは、高齢者、病弱者、精神障害者、そして日本語のわからない外国人だという。刑務所が社会的弱者のための「福祉の最後の砦」となっている。
結局、筆者たちが再三指摘するのは、治安悪化神話に乗せられることなく、正しい犯罪分析、正しい現状分析に基づいて、科学的、合理的な犯罪対策を講じていくべきだ、ということだ。実に当たり前のことだが、日本では04年の刑法改正による刑法の重罰化=「信仰に基づく犯罪対策」が進められていると言う。地域防犯活動も同じことだ。
- 地域安全マップの作成や防犯パトロールなど、現在さまざまに行われている活動は、防犯上はたして本当に効果があるのか。こうしたことが問われることは、ほとんどない。その傍らで現に進行しているのは、安全で安心な地域の実現どころか、相互に排他的な共同体の出現である。(P239)
しかし何故、マスコミはこうした事実を報道で取り上げようとしないのか。十分わかりやすく、単純で、しかも絵になる。TV的にももっとも取り上げやすい題材ではないのか。・・・と思ったが、実はメディア自身が犯罪を求めているのだ。その方がもっと簡単で絵になり視聴率が稼げる。治安悪化を煽ることが、実は犯罪増加につながるということを、マスコミ自身がよく知っているのかもしれない。
- 客観的な根拠なき治安悪化神話と、ノスタルジーでしかないコミュニティ崩壊言説が絡み合う「空気」が強まる中で、生活安全条例が連鎖的に制定されていっている。(P141)
- 「割れ窓理論」と称する「軽微な秩序違反から犯罪の芽を摘む」というゼロ・トレランス(寛容度ゼロ)的な厳罰化は、自立困難な受刑者を再犯へと追い込み、刑務所に送り込んでくる。自己責任を謳い、他人に厳しい排他的な社会において、社会的弱者が犯罪者として刑務所に送り込まれるのは自然な現象かもしれない。(P212)
<読書リスト>へ戻る
■ 見えない震災 (2007/ 1/13)
書名/見えない震災
副題/建築・都市の強度とデザイン
編著/五十嵐太郎 (金箱温春、青木茂、竹内昌義、南泰裕、倉方俊輔、松原永季、松富謙一、佐藤考一、平山洋介)
出版社/みすず書房 出版日/2006年 9月 8日
頁数/255P 価格/3000円+税
書籍コード/ISBN4-622-07233-5 C1052 \3000E
耐震強度偽装事件を「法的に定められている建築の耐震強度が偽装されていた。設計者の倫理性の欠如が厳しく問われるべきであり、今後はその確認とチェック機能をさまざまな形で厳格化していく必要がある」(P111)と割り切って処理していくことに大きな違和感を覚えた著者たちが、日頃の活動や思考に基づくそれぞれの視点から、その後の行政や社会の動きに対して異議を唱え、今後の建築や都市づくりの方向を論じている。
タイトルの「見えない震災」は、編者の五十嵐が「現代思想」に寄稿した論文である。これに目を留めた編集者が本書の企画を提案し、編者が建築構造や建築設計者、都市計画家など多方面の専門家に声をかけて編纂されたと「あとがき」に書かれている。その結果、必ずしも編者の視点に留まらず、多様な論文が集められ、非常に多様で興味深い論文集となっている。
最初の五十嵐の論文「見えない震災」は、まだ起きない震災に対して、スクラップ・アンド・ビルドを強要し誘導する社会の風潮や施策に対して、これでは「見えない震災」が発生しているようだ、と異議を唱える。これを哲学的に補完しているのが「不可知の次元」と題する南泰裕の論文である。不可知な地震に対して、可知的に対応することの不完全さと無意味さを嗤い、本当の対応のあり方を考えさせる。また、倉方俊輔の「『耐震構造』の歴史」は、日本の(ということは世界の)耐震設計技術自体がまだまだ発展途上であることを窺わせて興味深い。「耐震構造の父」と呼ばれる佐野利器が1900年に東京帝国大学に入学したときには、構造の講義は一切なかったという。
また、「リファイン建築」の青木茂、耐震改修デザインに取り組む「みかんぐみ」の竹内昌義や佐藤考一による多くの改修事例も興味深い。いたずらにスクラップ・アンド・ビルドするのではなく、丁寧に改修し再生していくことの重要性を語る。都市計画的な視点からは、神戸震災後の再生事例から松原永季、大阪の路地を活かした長屋の再生事例から松富謙一が論文を寄稿している。
最後に、平山洋介が「飛び地のランドスケープ」と題して、プロジェクト主義により経済的に成り立つ地区だけを偏在的に開発する昨今の開発が、不安の喧伝や情報化の進展などにより、社会に閉じられた「飛び地」ばかりを生み出し、都市をますます薄っぺで不安な状況に陥らせていくことを指摘し、スクラップ・アンド・ビルドを糾弾する。
アネハ問題が今の社会に提示したもの、そして今進められつつある対応策や社会の反応に大いに違和感をもっているが、その一端を示してもらった気がする。もちろんこれだけに留まらない。我々はもっと今回の問題を真剣に、そして真摯に考えていく必要があるのではないか。
- 今回の事件は、結果的に都市開発の推進者を後押しするのではないか。(P21)
- 過剰な予防論理は、都市改造を要請するために、まだ使用可能な建築の大量破壊を導き、人為的な地震として機能する。・・・震災を恐れるがあまり、みずから」行使される地震という逆説。(P24)
- 地震という不可知の極限的な事象は、「どうすることもできない天変地異」の一形態として存在している。・・・問題は、そうした不可知の概念に、人為的なメタファーを意図的かつ暴力的に混入させることにある。不可知の次元に対して、倫理と社会のシステムを不用意な形で強引に重ね合わせようとするとき、そこに恣意の判断が流れ込む。「どうすることもできない天変地異」に対し、「誰かが悪い」という因果を重ね合わせ、それによって問題が解決したかに見なす共同的なベクトルが作動してしまうからである。(P117)
- 「強い建築」が残り、「弱い建築」がつぶれたというわけではなかった。その地震(兵庫県南部地震)はきわめて偶発的に起こり、不規則に複雑に建築を崩壊させていたのである。(P125)
- 建築の構造はふたつの「不完全さ」を抱え続けている。ひとつは地震の挙動が完全には分からず、また経済性を考慮するなかで、「安全」のボーダーをどこに引くかという問題。もうひとつは、そのボーダーが時間とともに移動することに伴う、現在の基準との不適合の問題である。(P154)
- (接道違反のような既存不適格建築物の)改築や新築のできない状況は、経年変化や腐食進行による耐力の脆弱化を進め、災害の危険性を一段と助長させる。着手できない現行法律では防災のしようがない。(P198)
- もはや、問題は建物の「不足」ではなく、その「余剰」なのである。(P208)
- 「プロジェクト主義」の政策は空間の連続性を織り上げるのではなく、プロジェクトを都市全体の文脈から切り取り、それ自体において自立させた。(P234)
- 都市に生成する空間が深みをもっているのは、複数の欲求と声が複雑に絡み合っているからである。・・・しかし「飛び地」のデザインは葛藤との付き合いを省略し、空間を閉じる方向に「割り切って」いる。(P248)
<読書リスト>へ戻る
■ 下流同盟 (2007/ 1/ 6)
書名/下流同盟
副題/格差社会とファスト風土
編著/三浦 展 (服部圭郎、宮本冬子、藤田晃之、鳥海基樹)
出版社/朝日新書 出版日/2006年12月30日
頁数/243P 価格/720円+税
書籍コード/ISBN4-02-273119-2 C0236 \720E
三浦氏の最新刊は、朝日新書創刊と合わせて「下流同盟」。三浦氏が第1章「下流社会とファスト風土」、第2章「これがアメリカのファスト風土だ!」を執筆して、後は第3章「ファスト風土化し下流化する地方」、第4章「嫌われるウォルマート」を都市工学を学び経済学を教える服部圭郎氏、第5章「日本のワーキング・プア 心の叫び」を翻訳家をめざす大学院生の宮本冬子氏、第6章「アメリカの下流社会−こぼれ落ちる若者たち」を教育学者の藤田晃之氏、第7章「古いヨーロッパ・フランスは抵抗する」を建築・都市計画の鳥海基樹氏がそれぞれ分担して執筆する。
「下流社会化とファスト風土化は同じグローバリゼーションの断面の違いだと、私自身、あらためて気がついた」(P237)とあるように、三浦氏の造語・新概念である「下流社会」と「ファスト風土」は、実は「グローバリゼーション」が与える経済・雇用面と地域社会の変化面での双子の現象であるという認識の下、グローバリゼーションの代表的企業であるウォルマートや、それら企業によるファスト風土化により荒廃するアメリカ、フランス、日本、群馬県太田市の状況をレポートする。
世界で同時進行するファスト風土化・下流社会化については、それぞれ各国で同様な本が出版されている。それらはこの本の中でも何度も紹介される。バーバラ・エーレンライク「ニッケル・アンド・ダイムド−アメリカ下流社会の現実」やビル・クィン「ウォルマートがアメリカをそして世界を破壊する」、ナオミ・クライン「ブランドなんか、いらない−搾取で巨大化する大企業の非情」、ジョージ・リッツァ「マクドナルド化する社会」などで、特に鳥海氏には「フランチャイズ化される都市−現代都市の形態と構造」(ダヴィッド・マンジャン)の抄訳転載を依頼され、本著のなかで紹介を試みている。
どの章もわかりやすく、取り上げる事例も典型的で興味深い。特に太田市のピンク街化した中心市街地の事例やチェーン店の徹底的な労働者搾取の実態、こぼれ落ちる白人貧困層へのワーキング・プア施策(と同様な施策が皆無な日本の実態)などが目を惹く。また、鳥海氏のレポートは、都市計画的にも大変興味深い。
しかし三浦氏が執筆した第1章が、三浦氏の理論を概括的に述べており、この章だけを読めば、三浦氏の他の著作は読まなくても足りる、と言っていいほどの内容となっている。まとまりと事例の面白さという点で、三浦氏著作の入門書にして集大成とも言える本である。
- ファスト風土化は地域社会を四重に破壊する。・・・日本に本来あった豊かな自然を破壊・・・農村、山村、そして中心市街地における地域社会の破壊・・・そこにあった地域の歴史の否定・・・さらに、地域社会の中の取引関係を含めた人間関係の分断(P14)
- 確かにわれわれは、消費社会の中に生きている。そして生活の多くの時間を消費に割いている。しかし、だからと言って、われわれの「生」の全てが消費であるはずはない。消費はわれわれの目的でもない。われわれが消費者として生きるのは、われわれの生活、人生の一部に過ぎない。(P16)
- われわれは、ファストフードの利便性をしばしば享受することがあったとしても、毎日ファストフードを食べることを強要されてはならない。・・・同様に、ファスト風土的な商業地域で買い物することがあったとしても、ファスト風土に毎日住むことを強要されてはならない。そんなことをすれば、体力も気力も社会性もない人間が育ってしまうだろう。(P48)
- 計画をすることは重要であるが、この街をどうかしたいという理念、そこで生活する人の息吹を計画に込めないと、中心市街地であっても、そこには郊外的なコミュニティが喪失されたファスト風土が形成されてしまう・・・南一番街に不足していたものは、「この街の将来をこうしたい」というビジョンと愛情であったのだ。(P117)
- 「可能なことの都市計画」・・・マンジャンはそのために三つのコンセプトを提案している。・・・道づくりの都市計画、・・・通り抜けられる都市、そして雑種都市である。(P214)
- 都市景観の非効率生を積極的に受け入れること、美よりも活力を好むこと、速度よりも流動性を重視すること、さらにとりわけ、都市が常にさまざまな尺度で変化する異なった部分の集合体であることを認める価値観の転換が必要なのである。マンジャンはそのような都市を「雑種都市」と呼ぶ。(P221)
<読書リスト>へ戻る