
■ Toshi-shi の まち遊び日記 ■ |
|
公営住宅の行く末、UR賃貸の行く末 (2007.12.29) 国産材の家づくり (2007.12.4) 東国原知事を嗤う−自衛隊はしつけ機関ではない (2007.11.30) 建物床屋談義−最近の爆発・来年の爆弾 (2007.11.24) 日本の住宅セーフティネット (2007.11.17) コーポラティブ住宅のこれから (2007.8.1) 新潟県中越沖地震 (2007.7.18) 居住政策への転換 (2007.6.14) 200年住宅の意味 (2007.5.30) 高蔵寺ニュータウンを話そう会 (2007.5.19) 持続可能な都市再生のための計画技法 (2007.5.18) FWはゴールを産む機械 (2007. 2.25) 役所の消滅と地域への影響 (2007. 2.18) 不二家事件から学ぶもの (2007. 1.27) 報道機関って何? (2007. 1.21) 人を赦して罪を赦さず (2007. 1.21) |
|
|
2006年 まち遊び日記 (講演会記録等) 2006年 雑記帳 (住宅・都市への意見・感想) | ![]() |
公営住宅の行く末、UR賃貸の行く末 (2007.12.29)
「日本の住宅セーフティネット」で、「このままでは日本の公営住宅に未来はない」と書いたが、その後も公営住宅の将来について考え続けている。先日、ある会合で、とある先生から「行政は公営住宅の直接供給管理から撤退し、アフォーダブル住宅の付置義務等による民間(CDC'S)供給に移行する、といった抜本的な施策転換を検討すべき時期に来ている。」という意見を伺った。いよいよ平成21年4月から公営住宅の収入基準の下方見直しが実施される見込みだが、こうして公営住宅の特定目的化、福祉住宅化を進めていくと、究極的には公営住宅のスラム化を引き起こしかねない。「日本の住宅セーフティネット」では、逆に収入基準を撤廃し誰でも入居できる住宅にしていくことを提案したが、そうした方向では、低所得者向けの家賃補助は継続するにしても、早晩、民間競合という批判が起き、公営住宅の廃止・民営化という議論が起きることは間違いない。私はそれでもかまわないと思っているが、まさにUR賃貸がそうした批判にさらされている。
独立行政法人改革の結末として、国土交通省所管の住宅金融支援機構と都市再生機構の結論がそれぞれ2年、3年先に先延ばしとなった。また26日には、都市再生機構の「UR賃貸住宅ストック再生・再編方針」が公表されている。これを読むと、UR賃貸は今後、公的賃貸住宅として従来の中堅所得者層を中心とした供給から、民間住宅市場では自力確保が困難な高齢者や子育て世帯等への対応に重点化し、さらに地域連携を図っていく、と書かれている。一方で、独法改革の結末に対する朝日新聞の社説では、都心部で供給される高額家賃のUR賃貸は民間移管するとともに、高齢者等の居住する賃貸住宅は地方公共団体に移管し、都市再生機構を早急に解体せよと声高に叫んでいた。
私はこうしたマスコミの主張は現場を見ない理屈だけの意見であると思っている。なぜなら、UR賃貸全体の収支は高額家賃収入を高齢者等の居住する住宅に回すことで成立しており、これを切り離すことは、収益の見込まれる分野の利益を民間企業(それも大企業)で吸収し、収益の上がらない事業は税金投入でまかなえという理屈であり、行財政が切迫しているなかでは、結局福祉切り捨てにつながる施策であると考えるからだ。
都市再生機構の方針を読んで真っ先に私は、「これでは機構住宅の公営住宅化ではないか」と思ったが、それを地方公共団体に移管しても厳しい財政状況のなかでは担いきれない可能性が高い。特に建設行政という分野のなかでこの問題を解決するのは非常に困難と言わざるを得ない。生活困窮者対策は、福祉施策全体のなかで考える必要がある。
そもそも国土交通省で住宅行政を担っている官僚の多くは、建築学や都市工学を学んできた技術官僚だ。建築物や都市計画に関する知識はあっても、社会福祉システムについて専門的な教育は受けてきていない。関心すらなかった可能性が高い。もちろん就職し経験を積むなかで居住実態や住宅政策についての知見は得るだろうが、福祉政策全体に対する目配りやバランス感覚を十分身につけているとは言い難い。思えば公営住宅は戦後間もない時期に、当時の建設省と厚生省が綱引きをした結果、田中角栄の策略により建設省所管となったという話を聞いたことがある。住宅困窮をめぐる状況が、根源的な住宅不足という要因から経済的・世帯属性的な生活要因に移行している現在において、社会システム設計の観点からその所管官庁も含め再構築すべき時期に来ているのではないかと思う。
公営住宅の将来像も、福祉目的化しようが、みんなの住宅化しようが、行き着く先は同じではないか、と現段階では考えている。誰か上記以外のバラ色な将来像、改革案を示してもらえないだろうか。
国産材の家づくり (2007.12.4)
足助に通っていた頃知り合いになった方が、国産材・自然素材にこだわった住宅づくりを行っている「ほるくす」で家を建てているという。ブログを紹介されたので見せていただいたところ、地元材や自然素材だけでなく、手で木材を刻み組み上げているという。今どきプレカット全盛で手刻みは珍しい。地盤改良、杭打ち工事から基礎配筋、垂木、野地板、破風板まできれいに写真が撮られ、その点でもけっこう勉強になるかも。ということで、よろしければぜひごらんください。
東国原知事を嗤う−自衛隊はしつけ機関ではない (2007.11.30)
宮崎県の東国原知事が「僕は徴兵制はあってしかるべきだと思っている。若者は1年か2年ぐらい自衛隊か、ああいうところに入らなければならないと思っている」と言ったそうだ。既に多くの意見が出ているようなので、今さら私が特段目新しい意見を出せるわけではないが、それにしてもあまりに勘違いな発言なので一言書いてみたくなった。
知事の趣旨は、「若者のしつけがなってないので、自衛隊にでも入って鍛え直してもらえ」ということだろうが、自衛隊はしつけ機関ではない。他国からの武力侵略等に対し、自己被害を最小限に抑えつつ、攻撃を仕掛けてくる敵の武力と兵の破壊と壊滅を図るのが目的の機関である。目的に照らして最も効果のある戦略を講じることが必要であり、その戦略は必ずしも道徳的に好ましいものを選択するわけではない。大昔のように正々堂々勝負勝負の世界では全くないのはもちろん、待ち伏せや誤魔化しは当たり前。いかに相手の裏をかくかを研究しているはずだ。もちろん東国原知事が期待しているのはこうした戦略面ではなく上意下達の規律だろうが、それすら部隊が殲滅されず最大の攻撃成果を上げるための方策である。軍隊では次の行動や作戦を決定するのに、いちいち民主的に兵員全員で討議なんてできるわけもなく、隊長の判断・命令に是非もなく全員従うことが要求される。その方が生存できる可能性が高いためだが、判断が間違った場合は全員が殲滅されることもあり得る。
こうした状況を想定した訓練中にも常に上意下達を求められるのは、普段の生活からすれば不如意なことだと思うが、それでも上官の命令に従うのはそうしないと暴力などの不利益を被ると思うからである。そして自分が年長になり横柄な態度をとっても大丈夫だとなれば途端に新兵いじめをしてきたのは小説や映画でもよく描かれているとおりである(多分事実だと思う)。すなわちこうした生活で学ぶのは要領よく生きるこつであり、社会全体に対する思いやりや助け合いの心ではない。その結果養われる性格が日常社会に出た時に必ずしもよい方向で現れるという保証はない。それどころか、軍隊経験をした者が除隊後一般社会になじめず破滅的な人生を送ったり、軍隊の中だけでしか生きられず外国人部隊などに次の人生を求めるケースもあると聞く。自衛隊経験者の犯罪者率が特別に低いという話も聞かない。
そもそも若者のしつけがなっていないというのは、社会とうまく適応できていないということの表れである。戦後、しつけを道徳という形で学校に押しつけてきたが、必ずしもうまくいっていない。そもそも学校もしつけ機関ではない。社会とのつきあい方は社会と接する中で学ぶしかない。社会に対して不遜な態度をとるのは、それでも生きていけると思っているからである。社会の厳しさを知った者は社会に対して謙虚になり、社会のやさしさに触れた者は自分も社会に対してやさしくなれるものである。そして今、社会がどんどん非人間的になっている。人間に対してやさしくなくなってきた。こんな社会に適応するには、人間も非人間的にならざるを得ない。若者のしつけがなっていないのは、社会がなっていないからである。子どもは大人を見て育つ。自衛隊は子どもをまかせて足る社会だろうか。私たちの社会をこそ、子どもたちをまかせて足る社会にする必要があるのではないだろうか。
それにしても不思議なのは、東国原知事の今回の発言をマスコミがあまり批判的に取り上げないことである。マスコミには子どもを健全に育てるに足る倫理や道徳は消え失せてしまったのだろうか。批判すべきものはきちんと批判すべきではないか。こんな知事にいつ愛する子どもを取り上げられるかと戦々恐々としている宮崎県民もいるのではないか。宮崎県では自衛隊に預けでもしないと子どもは健全に育てられないと知事が自ら宣言したようなものだからだ。
建物床屋談義−最近の爆発・来年の爆弾 (2007.11.24) 床屋といえば様々な職業の人が出入りをしリラックスした中であることないこと語ることから、世間の状況がわかる重要な場所だった。最近は美容院へ行く人も多く、床屋も静かで、私がいつも行く床屋など、最初に希望の髪型を伝えるだけで(それも毎回同じだけど)、ほとんど口もきかずに帰ってくる始末。そこで昨日は最近身体の調子がすぐれず、鍼灸院へ行った。以下、鍼灸院談義。
ということで、平成12年の法改正のことまで、意外に庶民はよく知っているし、その上で自己責任に基づく自立的な判断をしたがっている、ということを感じました。こんな会話が聞かれるのは、地方のオヤジたちだからでしょうか。都会のパパ・ママはもっと国や行政に頼って暮らしているのかなあ。
日本の住宅セーフティネット (2007.11.17)
国会では相変わらず混迷が続き、建築基準法の改正を原因とした建築着工件数の大幅な減少が大きな社会問題になりつつある。こうした陰に隠れるように、この春に住宅セーフティネット法が制定された。公明党を始めとする議員立法で成立した法律で、公営住宅の応募倍率が異常に高くなっていることに対応して、UR住宅などの公的住宅や民間賃貸住宅も総動員して、住宅に困窮する世帯に対応しようとするもの。議員立法の当初では、民間賃貸居住者に対する家賃補助、いわゆる「石から人へ」といった志向もあったようだが、結果的には、これまでも進められてきた特定優良賃貸住宅と高齢者向け優良賃貸住宅を一本化して地域優良賃貸住宅として再編し家賃補助の対象を地方の裁量性を高めつつ限定化することと、高齢者円滑入居賃貸住宅・高齢者専用賃貸住宅という入居を拒否しない民間賃貸住宅の登録制度を拡充したあんしん賃貸住宅制度を創設することの2本が柱となっている。
ここで書きたいのは、セーフティネットを広げましたよ、というパフォーマンス施策に等しいこれらの新規施策ではなくて、従来から続けられている公営住宅制度のことだ。
現在の公営住宅制度には問題が山積している。公営住宅の戸数は全住宅数の約5%を占めるが、応募倍率は数十倍となることもめずらしくなく、収入基準に適合する者(理念的は所得階層で下25%を対象として設定)にとって高嶺の花となっている。どの県も財政的に厳しい中、公営住宅を増やす方向へ施策を進める自治体は少なく、また9割強の国民からも「特定の世帯だけが利益を享受している」として理解を得られない。
高度経済成長期には低所得時に入居した若年世帯が収入増加とともに持家取得を達成して退去し円滑な住み替えが行なわれていたが、今は収入増加もままならないまま住み続ける長期入居者が増加し、入居基準の高齢者優遇もあって、どの団地でも高齢化が深刻になっている。また、一部の県では外国人の増加が大きな問題になっている。これらは、公営住宅が基本的に自主管理(エレベーター等の管理費を自主徴収・自主運営など)を基本としているにも関わらず、こうした団地管理を担うことのできない世帯の増加を意味しており、将来的には管理費の滞納からエレベーターの運行ストップまで危惧されている。
こうした中で、国交省は公営住宅の適正かつ効率的な活用を図るため、収入基準の下方修正を検討するとともに、収入超過者については積極的な退去を促す方向での対策を強めている。最近新聞紙上を賑わす都営住宅の居住継承者の厳格化(配偶者に限定)もそうした方向の一つだ。退去を促進することにより、少しでも空家入居募集の機会を増やすとともに、所得基準に適合する世帯の入居率を高め、施策効果を上げることを目的としている。そうした方策の一つとして、子育て世帯の期限付き入居(子育て期のみ入居を認め、子どもが成長したら明け渡しを求める)もいくつかの都県では始められている。
一方で公営住宅の老朽化も課題として挙げられることが多い。高度経済成長期の昭和40年代に大量に建設された中層RC造住宅が建設後30〜40年を経過し、狭く駐車場もない団地が今の時代に合わず陳腐化してきている。厳しい財政状況の中で、できるところから細々と建替えが進められているが、膨大なストックに対してはあまりに少なすぎ、このままの状況では多くの住宅が耐用年数の70年を経ても放置されかねないと危惧されている。
さて、こんな状態で住宅セーフティネットは十分確保されるのだろうか。周辺の網に糸を一つ張っている間にも、中心部の網の破れはどんどん広がるばかりのように感じる。
こうした思いを持っていたところ、昨日たまたま、建築・住宅問題の専門家の方々と意見交換をする機会があった。こうした現状に対して絶句というのが最初の反応ではなかったかと思うが、さまざまに意見交換をするうちに、住宅セーフティネット施策は根本的なところで方向を誤っているのではないか、という思いを強くした。その核心を突く意見は次の一言である。
「日本の福祉施策は、対象を厳密化することでますます隘路に陥っているのではないか。デンマークなどでは最低を救うのではなく、全国民を対象に考えられている。」
その他にも、「公営住宅に入居できない困窮者は結局劣悪な環境の民間賃貸住宅に居住しており、地震時には彼らが災害被害者となる」といった意見や「公営住宅だけを対象にするのではなく、持家や民間借家も含めた地域全体を視野に入れた施策が必要だ」といった意見もあり大変参考になった。
メンバーの中に最近デンマークへ行かれた方もおられたが、「デンマークでは公営住宅へはだれでも入居ができる」という話もあり、やはりそれが正しい施策の方向ではないかと感じる。
社会保障の分野では古くからベーシック・インカムという主張があるようだ。しばらく前に以下のブログを中心にネット界で議論が盛り上がっていた。簡単に言えば、全国民に生活状況の審査などもなく、また年齢等の区別もなく、最低限度の生活資金を支給するという制度だ。荒唐無稽の暴論と思われそうだが、生活保護と基礎年金を一体的に議論すべし、という意見もあるようだし、社会制度の大きな転換を議論するという立場に立てば、当然視野に入れるべき考え方だ。特に、資格審査にムダな税金と労力を費やさないという点が魅力だ。そしてこの考え方は公営住宅の入居資格審査にも通じる。
コーポラティブ住宅のこれから (2007.8.1)
都市住宅学会の2007年夏号の会報に、千葉大の小林秀樹教授による「コーポラティブ住宅のこれから―成熟時代における組合方式による住宅の可能性」と題する論文が掲載されていた。世界的には、コーポラティブ住宅といえば組合所有形式の住宅をさす中で、日本でなぜ建設組合方式のコーポラティブ住宅が一定程度普及したのか、という問いに答えつつ、時代の変化の中で、今後のコーポラティブ住宅の可能性や組合所有方式の可能性について考察したものだ。
日本でなぜ建設組合方式のコーポラティブ住宅が一定程度普及したのか? 先生によれば、3つの理由が挙げられている。@ 自由設計、A 内装設備の低コスト生産システム、B 住宅金融公庫の融資制度。このうち、特に、A 内装設備の低コスト生産システム、すなわちバスユニット、システムキッチン、アルミサッシュなどの個別対応した住宅部品生産システムが、ローコストな自由設計を支える仕組みとしてわが国特有だったのではないかと指摘している。一方で、コーポラティブ住宅のもうひとつの特長といわれるコミュニティ形成については、それを主目的としたコーポラティブ住宅の実現は困難であると現実的な認識を示している。
しかし、スケルトン分譲方式など分譲マンションでも自由設計は可能となってきている中で、今後、コーポラティブ住宅のノウハウは、@ 小戸数開発、A 不確実な需要対応、B 居住者参加による意思決定、が必要とされる領域、すなわち小規模再開発や建替えでの活用が期待され、またその機会は増えるだろうと予測されている。
また、組合所有方式についても、面接による入居者選別等が可能なことや組合所有ゆえの改修や建替え等の容易性などの長所を生かし、高齢者向けなどの特定目的の共同住宅での活用(コミュニティハウス法隆寺の例)や公共賃貸住宅の払下げの受け皿としての活用が提案されている。後者が提案されるのは、既にどこかでそんな検討がされているのだろうか。しかしそのためには、アメリカのCDC'sのような相当の能力を有するNPO組織の存立が可能な仕組みが求められる。
いずれにせよ、わが国特有のコーポラティブ住宅のノウハウを、新しい時代の中で生かしていくという視点は必要だろうし、コミュニティ幻想にいつまでもしがみついているのは生産的ではないのかもしれない。
新潟県中越沖地震 (2007.7.18)
新潟県中越沖地震が発生した。現時点で死者9名、負傷者1000名以上、倒壊家屋も全壊343棟、半壊・一部破損1093棟と甚大な被害が発生している。震災被害が大きかった柏崎市・刈羽村は、3年前の新潟県中越地震の際に、応急危険度判定に駆け付けた地域であり、特に刈羽村では判定活動の立上げから始まり、3日間にわたり滞在し活動を行なっただけに、村の地理や町並み、人々の顔まで思い出され、今回の被害に対して深い同情の念が沸き起こる。と同時に、不謹慎ながらも、現状どうなっているのか、見てみたい気持ちが禁じえない。
愛知県からはさっそく今日から先発で建物被害や支援活動に関する調査員が現地に向かった。今後、応急危険度判定士の派遣要請がある可能性が高い。指名はあるかもしれないし、ないかもしれない。こうした経験はなるべく多くの人が経験した方がよいと思うから立候補はしないつもりだ。
先に判定活動を行なった経験からすると、現地は原子力発電所が立地する日本海側の岩盤質の低い山並みの背後に細かい砂が堆積した砂質土の土地だ。山からきれいな清水が湧き出て、平野部には青々とした水田が広がる。そして先の地震でもここかしこに液状化が見られ、建物はきれいにまっすぐ沈下をしていた。このため、水田に面した家屋を除いては建物が大きく傾くことは少なく、柱と束の沈下量の違いから、ふすまや板戸が動かなくなっている事例が多く見られた。
今回の被害もテレビで見る限りでは、こうした地盤の影響が大きいように感じる。砂質土で振動周期が長く、ゆさゆさと揺れた結果、1階部分の壁量が少なく老朽化した家屋で1階部分が2階や屋根の重みに耐えかねてつぶれたという印象だ。しかし一方で墓石がほとんど倒壊していないという情報もあり、どういう揺れが起こり、どういう家屋がどのようにして倒壊したのか、非常に興味がある。もちろん被災者に対しては不謹慎だということは自覚しているが、技術ということはそういうことである。
話は飛ぶが、建築基準法改正に伴い、審査が非常に厳格になった。しかしそこには技術に対する信頼の欠如が感じられる。法律への適合如何に関わらず壊れるときは壊れ、壊れないものは壊れない。そこに経験と知識が生まれ、技術力が育つ。法律への適合性のみで形作られる世界は、柔軟であいまいな現実の前で建前だけが立ち上がり、固い建前の蔭で柔らかい人間社会が泣いている。そんな危惧が消えない。
話を戻す。新潟で多くの建物が倒壊したという現実がある。その現実をしっかり見据え、未来へ向けた舵取りに生かす。現地へ行かれる方には是非こうした現実を感じ、考え、その成果を我々に伝えてほしい。ボランティアは直接被災者のためでもあるが、自分自身のためであり、また社会のためにもなりうる。そんな活躍を期待する。
居住政策への転換 (2007.6.14)
愛知ゆとりある住まい推進協議会(http://www.yutori.gr.jp/)の総会・記念講演会で東海学園大学の三宅醇先生の講演を聴いてきた。タイトルは「『住宅政策』から『居住政策』への転換期」。三宅先生といえば、住宅土地統計調査を用い、世帯主の年齢別・世帯人員別世帯数の経年変化を詳細に追うことで住宅需要の過去を説明し、未来を予測するLCM(ライフ・サイクル・マトリックス)法を生み出し、団塊の世代とその後の世帯数の減少や団塊ジュニア後の住宅需要と都市形成の変化を説明する「負の需要」論で有名だ。先生の話はこれまでも何度も聴いてきたし、また日頃からのおつきあいもあるが、今回は久し振りに興味深い話が多く聞け楽しかった。
25年ごとの人口ピラミッドを比較し、今後急増する老年層に対する居住政策の必要を説くのは従来と同じだが、若年層・中年層の住宅需要が減退する中で、「老年層は建築需要(新築・建て替えだけでなくリフォーム等も含む)は生むが土地需要は生まない」という指摘があった。まさにそのとおりで、そのことが都市構造に及ぼす影響は少なくない。単に都市の縮小・過疎化が課題なのではなく、都市構造の各エリア(中心部・周辺部・郊外部等)ごとの世帯状況の変化も重要だという指摘と捉えることができる。
また、介護保険認定者の5歳加算で2倍増の法則(65〜69歳で3.5%、70〜71歳で7%、以下14%、28%、56%と倍増していく)と、だからこそ増加分の介護予備軍である3.5%、7%・・・に対する健康施策が重要であり、またこうした高齢者の地域コミュニティへの参加を促すことが介護者増加予防の上でも重要だという指摘はこれまでも聞いたが、今回、先生自らが最近関わっている地元のまちづくり活動の体験を踏まえて、高齢化する公営住宅と周辺地域というエリアで体験的に語られたことが大変興味深い。そこでは周辺地域が公営住宅に居住する高齢者等を支えるという活動や思いが展開されようとしている。
それ自体も貴重なお話しだが、それに触発されて私が感じたのは、公営住宅の周辺地域からのイメージが変化しようとしているのではないかということ。つまり、今までの公営住宅は、低所得者が集まる困った地域であり、できれば排除したい対象であった。しかし、周辺地域の居住者自身も高齢化し、地域での支え合いが自分自身の将来の必要として理解され、また実際に支え合い活動に参加する中で、公営住宅に居住する低所得の高齢者や日本で不自由な生活を送る外国人が、助けるべき対象者として現れてきたのではないか。それが周辺地域のボランティア精神を喚起し、公営住宅が地域の中に根づいていく方向でのコミュニティや住民意識の変化を生んでいる。先生のレジュメによれば、「コミュニティのあり方が大きく変化している。近隣との調和・協同の必要性」という表現がそれにあたる。
もう一つの指摘は、先の人口ピラミッドの変化に伴う住宅需要の変化と同様の話だが、人口構造の変化は住宅需要というより土地需要の変化であり、これが地価変動に直結しているという指摘。団塊の世代が40歳代を卒業した時期である1990年に地価下落が始まったように、団塊ジュニアが40歳代を通り過ぎる2015年には地価の再度の暴落が起こる可能性があり、しかも団塊世代後の人口増はないことから、現在のような地価の持ち直しはないかもしれないという悲観的な指摘は多分正しい。しかし一つ思うのは、老齢層には新築需要はなくても建築需要はあるかもしれないと言うのと同様に、土地のリフォーム需要、すなわち再開発などの土地の質改善需要の可能性はないだろうか、ということ。今の都心居住ブームの一端に、団塊世代の都心居住志向があるように、団塊ジュニア世代の高齢化過程でもう1回だけ土地需要、地価の持ち直しがあるかもしれない。もっともそれが最後で、以降は定常社会に移行せざるを得ないし、その頃には日本社会は(世界も)大きく変化しているはずだ。
先生の口から聞かれたもう一つの刺激的な言葉が、「公営住宅もただの高齢者住宅を造っていくだけなら、施設をつくった方がマシ。今後はコミュニティも含めた住宅整備計画が必要だ」という指摘。まさにそのとおりだし、これは公的住宅だけの課題ではなく民間賃貸住宅も同様かもしれない。
民間賃貸住宅といえば、持家の床面積の伸びがこのところ頭打ちなのに対して、借家についてはまだ床面積は伸びつつある傾向が見られる、という発言に対して、そのための方策を聞く質問があった。これに対する直接の回答ではないが、人口動向から今後は民借需要の減退が予測されること、また持家の借家化という傾向や、借家の規模別分布が居室面積6畳の1DK、18畳の2DK、24畳の3DKと3つの山を示していること、またその経年変化を示しつつ、借家全体を平均的に見るのでなく、民間借家の実態を分析的に見ることを示唆された。借家が単身者や夫婦向け住宅に特化するとともに、借家需要が減退する中で、規模の大きい借家は、持家からの転用借家に限られていくのかもしれない。いずれにせよ、単に借家の規模増をのみ目標とすることは無意味であるし、正しい結果を生まない。
少子高齢社会が本格化する中で、住宅政策をどう展開すべきか。住生活基本法、そして居住政策への転換という方向は正しい。その方向への道をどう形作っていくか、その方法や筋道はまだ明確に見えてきたとは言えないし、現時点ではまだ困難な点も多い。しかし地域やコミュニティの重視・連携は確かなことであるし、時代の風はそうした施策を応援する方向に吹いていることが示され勇気づけられた。同時にそのための的確な分析の重要性を改めて気付かされた。なかなか面白い示唆に富む講演会だった。
200年住宅の意味 (2007.5.30)
自民党が昨年8月に「200年住宅ビジョン」という提言の中間取りまとめ案を公表した。近くその最終提言が公表されるらしい、という話を聞き、200年住宅について考えた。詳細はまだ聞いていないが、日経新聞のサイト(http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20070402AT3S0100502042007.html)によれば、維持管理の適正化のために、施工内容や改修、維持管理などの履歴を明示した「家歴書」の作成の制度化や、税制上の優遇、住宅の「長寿化」に対応した中古流通市場や新たな住宅ローンの仕組みなどが検討され、基本法の制定も視野に入れているらしい。
200年住宅といって思い出すのは、20年ほど前にセンチュリー・ハウジングなんてプロジェクトがあったなあということ。当時は、可変性を備えた高機能住宅をもっぱらめざしていたようだが(参考:http://www.jj-navi.com/edit/dictionary/se.html)、今回はこうしたハード面の対応に加え、ソフト面も視野に入れているのが特徴か? 住宅のハード的には、耐用年数100年も200年も大して変わりがあるとは思えない。というか、そもそも建築の構造に耐用年数という概念はあまりないのではないか。
この話題について話していたところ、同僚が「100年だと自分の子供や孫の世代が住んでいることも考えられるけど、200年後では誰が所有しているのかもわからない」と言っていたが、案外200年住宅の意味はそんなところにあるに違いない。すなわち、従来、住宅は個人財産の一つと考えられ、例え被災後であっても、税金を投入することにはためらいを示すことが多かった。しかし200年も持つ住宅となると、個人財産という概念を越えて、社会的な財産、社会資本という性格を帯びてくる。
住宅金融公庫や住宅都市整備公団の解体など、住宅施策はこのところ公的役割を限定化し、民間活力に委ねる方向へ向かっている。住生活基本法も基本的にはそうした流れの中で、公共の役割を明確化しようとした動きの一つと見ることができる。こうした流れに抗して、200年住宅ビジョンは、住宅を社会資本の一つとして位置付け、公的資金の投入に道を広げようという意図から生まれた提言ではないだろうか。
実は一昨年の今頃、職場で「ミレニアム・ストック・プロジェクト」を提案したことがあった。ミレニアムとは1000年。1000年先の時代にも残る歴史文化的な価値を持つ住宅や建築物を建設し、また保存支援をしていこうという提案だったが、あえなく職場内の企画部門や財政部門の理解が得られず、日の目を見ずに終わった。200年住宅ビジョンには同じ匂いがする。しかしなぜ200年なんだろう。100年でも1000年でも、はたまた500年でもなく、200年。実現可能なようで手が届かない、その中途半端さがいいのだろうか。200年住宅ビジョン。今後の成り行きが注目される。
高蔵寺ニュータウンを話そう会 (2007.5.19)
春日井市主催で、ニュータウンの住民から直接様々な課題や思いを聞こうという企画「高蔵寺ニュータウンを話そう会」が開かれた。ニュータウンにお住まいの方は事前申し込みなしで誰でも参加OKということなので、私もどんな人が集まりどんな意見が聞かれるかと興味を抱きつつ参加してきた。高蔵寺ニュータウンも来年の平成20年で入居開始から40年を迎える。全国的にはこのところ急にニュータウン問題が脚光を浴びてきて、昨年秋には、多摩・千里・つくばと高蔵寺の4ニュータウンが集まり、ニュータウン縁卓会議なるものも開かれた。また国も、住宅市街地総合整備事業の対象要件を広げニュータウンも補助適用対象としてきている。こうした中で、春日井市長のマニフェストにも高蔵寺ニュータウンの再生・活性化が書き込まれていたそうで、そうした背景もあり、まずはニュータウンの課題を掘り起こそうという試みの第1歩だ。とは言っても、特にテーマがあるわけでも、市として今後の方向が提示されるわけでもなく、全くの無手勝流で「どんなご意見でもお聞かせください。」と言われるのには、逆に驚くというか、勇気があるというか。総勢で50名弱集まった中には、「一人だけで個人の意見を聞いてくれ」と宣う変わり者が一人だけいたが、他はみんなこうした市の姿勢を尊重し、市の意向に沿った意見が聞かれた。
様々な意見があったが、大きくは、(1)都市デザインに関すること、(2)少子高齢化に関すること、(3)コミュニティに関することの3つに大別できる。
1番目の都市デザインに関する意見では、「高蔵寺の街の構造は、昭和40年代から開発が始まったという時代背景から、土地利用計画が集約的で車優先のモータリゼーション中心のものとなっている。今となってはこれはとても住みにくい構造であり、今後はより分散的で多機能・多様性のあるものに再編していかなければならない。」という意見がもっとも大局的で説得力があった。同様な意見として、「歩いて暮らせる街に」といった意見もあった。具体の方策としては、住宅以外の機能を混在化すべきとして、500m以内にコンビニエンスな場所(公園や集会所、コンビニエンスストアなどを活用)を設ける、未利用地を職住近接の場に活用できないか、駅前のパーク&ライド施設の整備などの意見があったほか、耐震性への不安や中層マンションの老朽化への危惧からの建て替え支援などの意見が聞かれた。また、最近、高蔵寺駅前に高層マンションが林立していることを捉え、市に景観に対する考えが欠如していることを指摘する声もあった。
2番目の少子高齢化については、特に高齢者の福祉対策について具体的な意見が聞かれた。例えば、市内巡回バスの時刻を公共施設でのイベント開催時間に合わせてほしい、保健センターを借りて住民有志で実施している高齢者健康づくり教室について場所を優先的に確保できるよう配慮してほしい、児童公園を高齢者向けに改修したらどうか、保健センターの診療機能の充実、ホスピスや介護施設、老人ホームの建設など。小学校の空き教室を高齢者の利用に開放してほしい、という意見は高齢者というよりコミュニティ対策かもしれない。一方、少子化対策については、住み替え相談室の設置などの意見に加え、若い人にニュータウンをPRする活動をしたらどうかという提案もあり、面白く聞いた。
3番目のコミュニティについては、大学生の参加者から、「はっきり言ってニュータウンは一般の市街地と較べコミュニティが成熟していない。」という発言があったのが興味を引いた。彼の言わんとすることが今一つはっきりしないが、確かに「隣は何をする人ぞ」的な住まい方も可能なのがニュータウンでもあり、逆に一般市街地にこうした生活が広がっている、と言った方が正しいようにも思うが、ニュータウンならではのコミュニティのあり方を考えてみるのも面白い。もっとニュータウンを楽しむための散策マップを市民主体で作ったらどうか、という意見もあり、また「ボランティアの街に」「街区ごとに街の花やカラーを決めたらどうか」など斬新な意見も多く出た。
全体として、市民の非常に前向きな姿勢が見られたこと。また、「行政にもかつてのような金がないだろうから、これからは市民が主役となってまちづくりを進めていくべきだ」というように、これからの行政と市民の役割をきちんと捉えた意見も多く聞かれ、健全な市民意識が伺えた。
こうした市民を前に、市がこれからどういう方向にニュータウンのまちづくりの舵取りをしていくのか、大変興味深い。今回、市が全くの無手勝流でこのイベントに望んだこと、また集会中の市幹部の発言に若干市民側の意識とのすれ違いが見られたことなどは少し不安材料だが、住民として、またまちづくりに関心を持つ者の一人として、「春日井市よ、がんばってくれ!」と言いたい。
持続可能な都市再生のための計画技法 (2007.5.18)
愛知住まい・まちづくりコンサルタント協議会の今年度の総会記念講演会は、昨秋に東京から名古屋大学に赴任してきた新鋭バリバリの准教授、村上顕人氏。タイトルは「持続可能な都市再生のための計画技法−海外諸都市の取り組みから−」。まだ名古屋に来て間もないということで、自己紹介・研究紹介から始まり、本題の計画策定技法研究の話に入っていく。
計画の策定は、「都市の現在そして未来の状況を見据えながら、多様な主体の都市空間に対する要求を踏まえ、都市空間形成の目標・方針・施策を統括的に定める取り組み」という定義は異議もない。計画策定作業の3つの側面と3種類の技法として、現状分析・将来予測側面における科学的技法、空間構想・空間構成のための創造的技法、合意形成・意思決定のための政治的技法という整理もそのとおり。
これらの基本的枠組みの説明の後、シアトルと南カリフォルニアにおける計画策定過程の詳細な説明がされた。ポートランドも含め、よく聞かれるように、十分な時間と費用、そして参加の下に、徹底的・理想的な画策定が行われていることはよくわかった(少し眠気を押さえるのに苦労したけどネ)。ただわかりにくかったのは(これは帰ってきて今思うことだけど)、創造的手法例として説明されたマラソンセッションや環境影響評価などが本当に創造的な作用をしていたのかどうか、という点。合意形成のための政治的手法との違いがわかりにくい。創造的手法として個人的に期待するのは、相反する意見を調整・止揚し、より高い次元での解決を与えるアーバンデザイン手法。さまざまな対立局面を超克するフィジカルアイデアや具体の施策構想。そうした思いは、日本は具体のアーバンデザインに関する研究や教育がされていないのではないか、という危惧につながるのだけれど。
講演会後の意見交換では、日本では考えられないアメリカの状況に対して、そうした取り組みを可能とする社会背景等に対する質疑応答に集中した。その中で、「日本では補助金制度のディテールが街のデザインを決めているように思う」という意見があり、計画を実現する手法や制度への研究を期待する意見があった。まさにそのとおりで、「計画」「規制」「誘導」という従来言われてきた都市計画の3側面が、民営化、規制緩和、行政改革という流れのなかで、そのあり方が変わってきた、もしくは変わらざるを得ない状況になってきた。村上氏の研究も、このアメリカの理論・実践を元に、いかに日本で適用できる新たな理論提案につなげられるかにその真価が問われると言いたい。もっぱら日本の都市マス実践の場を研究フィールドとしてきた吉村氏(日本福祉大)の質問も、そうした問題意識からだっただろうか。
FWはゴールを産む機械 (2007. 2.25) 小田嶋隆さんが開設する「偉愚庵亭憮録」というブログのエントリー「極めて健全」に、マリノフスキーさんが以下のようなコメントを寄せていました。2週間以上仲間に教えつつ、ひっそりと楽しんできましたが、どうしてもみんなに教えたい衝動が押さえきれません。コメント欄に置いておくにはもったいない、ということでここに再録・紹介します。
こうして、他の話に例えると、元の発言のおかしさがわかるような気がします。もちろん、柳沢といえば、鹿島アントラーズの所属で、ドイツW杯で奇跡的なシュート・クリアをした選手ということは、サッカーファンなら知らない人はいません。
役所の消滅と地域への影響 (2007. 2.18)
岩手県庁の昼休み時間短縮に対して、周辺の飲食店主たちが抗議の陳情をした、という記事が載っていた。
不二家事件から学ぶもの (2007. 1.27)
不二家の事件が発生した直後から、賞味期限が1日オーバーしていたくらいで何がいけないんだろう、といった趣旨の意見が各ブログに多数掲載されている。僕も同様に思いつつ、かばう理由もないしと静観していた。それよりわからなかったのは、報道直後から、「不二家は雪印事件から何も学んでいなかった」という報道が各社でなされていたことだ。学ぶ主体は企業経営者だろうが、では雪印事件から学ぶべきことって何だろう。
報道を垣間見たかぎりでは、事件発生後の対応の悪さや事件発生に備えた組織構築がされていなかったことが指摘されているようだが、これらはいずれも企業経営戦略の問題である。十分な対応組織は当然経費がかかる。その負担と事件発生のリスク、そしてその代償を天秤にかけるのが経営者の務めだ。当然、過剰な組織構築は不要であるし糾弾される対象になる。対応の悪さも同じことが言えるかもしれない。謝罪や調査に余計な費用をかけずに事態が収拾するなら、それに越したことはない。今の時代、あの対応で済むと判断した経営者は、経営能力がなかったということで経営陣が刷新されようとしている。当たり前のことである。
さて、不二家が適切な対応組織や事件後対応をしていれば、消費者にとってはどうだったか。事件後対応はどうでもいい。直接の被害者にならない限り、テレビの前で何度の角度でどれだけの時間頭を下げようが関係ないし、気に入らなければ買わないだけのこと。期待したいのは、衛生的で身体に害のない原料で常に商品が製造される体制が整っていること。そして、万一ミスがあった場合、被害者に対して十分な補償をしてもらえること。もちろん、ミスを発見した時点で、その後の製造・流通段階でのフォローや、ミス再発を防ぐフィードバックが適切になされること。以上だろうか。品質確保部門やお客様対応部門は、ミスの発見や適切な製造体制を維持していくために必要な程度の充実が求められるが、それが主役ではないはずだ。
雪印は、事件後、上記のような観点でどう対応したのか。「雪印事件から学ぶべきもの」は何だったのか。今回の報道では、雪印の対応の参照すべき点として、もっぱらお客様対応体制の充実が語られているような気がするのだが違うだろうか。雪印事件で明るみに出た品質管理の厳格化について、産業界やそれを支援する行政ではどんな対応がなされたのだろうか。よくわからない。
今回の事件でもう一つ疑問に思ったのが、賞味期限の問題だ。某社が賞味期限を2年も過ぎたチョコレートを使用していたとして報道されたが、それでも別に健康被害が発生していないことに逆に驚いた。賞味期限って何なんだ!もともと品質保証期限と違って賞味期限はおいしく食べられる期間なので、その期間が過ぎたから即危険というわけではありません、という告知はされていたと思う。だからこそ、賞味期限切れギリギリの商品を何割引で販売し、消費者もそれを喜んで買って帰っているわけだ。品質管理という観点からは、賞味期限といった曖昧なものではなく、例えば常時大腸菌量を測定するとか、細菌の増加曲線を参考に使用期限を定めるなどのせめてもう少し科学的な製造マニュアルを定めるべきではなかったか。その方が経営的にも、また衛生的、環境的にも合理的なはずだ。品質保証期限ならともかく賞味期限で製造マニュアルが定められていたこと自体が情けない。でも、「うちは賞味期限何日前までの原料しか使いません。」なんて企業が出るんだろうな。トヨタの看板方式を見習えば、製造数分前に納品された原料しか使いません、という方が正しいのかもしれないが、それはそれで道路の私物化や下請けいじめなどの問題もあるんだろう。
いずれにせよ、不二家が悪い、だけで終わらせては何の役にも立たないし、それではただ「不二家は運が悪くて可哀想」という思いを助長するだけで、引いては「見つからなければいい」ということにもなりかねない。
報道機関って何? (2007. 1.21)
先のentryの後、報道機関って何?と考えた。
まず言えるのは、日常では知り得ないさまざまな事実を取材し報道をしてくれるところ。でも事実と言っても、世界同時にさまざまな出来事が起こっているわけだから、何を報道するか、という時点で事実の選択が起こる。続いて、どの順番でどの程度に詳しくといった編集が行われ、それに意見が付け加えられる。こうしたある種偏向した事実と意見を、テレビや新聞など多数同時に伝えられる報道手段によって、もっぱら一方的に発信する、というのが一般的な報道機関の実態だろう。
このように、一方的で偏向した情報の洪水に対して、自らを平衡的に保つためには、多くの偏向報道に接して吟味する必要があるが、限られた時間では無理だ。考えてみれば、自分自身も偏向しているわけだから、自分と同じ程度に偏向した報道と接することにすれば、とりあえず自分の平衡感覚は保たれ違和感がない。「聞きたいことしか聞かない」という態度だ。
それにしても、最近は聞きたい報道が少ない。報道ステーションはキャスターが古舘伊知郎になってから見るのを止めた。「みのもんたの朝ズバッ!」も朝からバランス運動をするのに疲れた。そして日曜の朝の「サンデーモーニング」も「喝!」が楽しみだったのに、今日のテレビを見て、思わずチャンネルを変えた。
でもどうして僕たちはこうしたニュースや新聞を読むのかと考えてみると、その情報が自分の生活に関わってくると思うからで、だからどの報道機関も日本向けに南アフリカで昨日起こっただろう交通事故の報道はしないし、北見市でガス爆発があっても僕の生活に何の影響もない。それでもガス漏れが何故発生したか。万一、自分に同様の事態が起きた場合、ガス会社などどう対応するのか、などは知っておいて損はない。つまり、ニュースの価値は、それが現在または将来の自分の行動に影響を及ぼすかどうかにあると言える。悪人を叩いてストレスを解消する、というのも価値がないわけではないけど、あまり趣味がいいとは言えない。
と言うわけで、最近、見たい報道番組がなくなってしまった。事実だけ淡々と伝えてくれる番組でもあればいいのだけど。
「あるある」の納豆やらせ事件で、メディア・リテラシーを云々するブログも見かけたが、ホント、マスコミには気を付けて付き合わねばと思う今日この頃だ。
人を赦して罪を赦さず (2007. 1.21)
「404 Blog Not Found/裁判官は冤罪でも晒されない」にあった言葉。
このentryは、直接には富山県の強姦事件誤認逮捕に関連して、なぜ警察ばかりが謝罪して検察や裁判官は謝罪しないのか、ということを訴えたものだ。
その元ブログはこちら。
「佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン:裁判所は冤罪でも叩かれない」
このところ、不二家事件であそこまで執拗に不二家を追及しておきながら、他の菓子・食品メーカーの状況を調査追究する報道が見られないことに違和感を感じていた。そこへ北海道北見市のガス漏れ事件。日曜の朝、関口宏のサンデーモーニングを見ていたら、案の定、毎日新聞のひげのおじさんが、北海道ガスの責任を問う発言をしていた。
しかし、賞味期限が切れていようが、誰が死んだわけでもない。北海道では亡くなった方は気の毒だが、そこまでの事態になるとは思っていなかっただろうに。もちろん、想像力の欠如、責任感の欠如というのは簡単だが、事故は起こってみて初めて原因が知られるものだし、そこからの対応が重要だろう。不二家事件にしても同様。こちらについてはそもそも賞味期限とは何ぞやをしっかり認識しないと、叩くための事件で終わりかねない。
まさにそのとおりで、「人間はミスする葦である」は私の口癖だが、その認識の上で、ではミスしたらどうしようか、を考えるべきなのだ。
「ミスしたら罰する」ことが本当に「ミスの減少」につながるのだろうか。「ミスを減少」させるための方策をこそ考えなくてはいけないのではないか。