2008年に読んだ本




これ以前に読んだ本に興味のある方は



食糧がなくなる!本当に危ない環境問題   (武田邦彦 朝日新聞出版)  2008.11.10

 今や日本の環境問題の第一人者といった感もある武田先生が、今度は「本当に危ない環境問題」と題して、食糧問題について書いた。アメリカ主導のバイオエタノールは、アメリカの石油政策、食糧政策から出た自国主義の産物で、地球にやさしいどころか、最貧国に飢餓をもたらす最悪のシナリオだ、ということを訴える。そしてその打撃を最も強く受けるのは、北朝鮮よりも穀物自給率の低い日本だ、と警鐘を鳴らす。
 こうした着眼点はいいと思うし、第2章の「地球温暖化が食糧危機を救う!」というのも、この人の持論で許せる範囲だが、次第に止まらなくなり、「食品添加物よりも食品そのものが危ない」とか「農薬は本当に危険だったのか?」といった主張になると、ホンマかいな、という感じが否めない。
 私の専門に多少は近い地震や原子力発電所の耐震設計になると、言わんとすることはわからないでもないし、大筋はまちがっていないが、筆が走り過ぎてそこはちょっと、と言いたくなる。本当の専門家ではないので、専門家ならそうは書かない、考えないという基本的な認識のズレが気になる。
 この人がネットで強く否定されるのはこうした部分なんだろうなあ。一般庶民向けにTV出演や講演をしている方が合っているのにと思う。



アキハバラ発<00年代>への問い   (大澤真幸編 岩波書店)  2008.10.30

 今年6月に秋葉原で起きた無差別殺傷事件。中学校まで優等生で高校で挫折した非正規雇用者。犯行の数日前からネットの掲示板に書き続けられた自己否定の言葉と犯行の実況中継。そしてオタクの聖地、日曜歩行者天国の秋葉原に車で突っ込みかつダガーナイフで刺殺してまわるという行動の特異性。この衝撃的事件は、政治経済的視点から、ネット社会とオタク文化の視点から、また格差社会の視点からと、事件発生当時、さまざまな視点で報道が繰り返された。が、いまや、結局一人の弱い人間の犯行という印象を残して、人々の記憶から消えようとしている。
 この一見わかりやすい事件をめぐって、幾数人もの社会学者、評論家、ジャーナリスト、作家らが集まり、それぞれ独自の立場からこの事件を論評し、同時に現代社会に抱える病巣をえぐり出す。
 集まった識者は総勢22名。全体は3部構成で、第1部ではもっぱら犯人を取り巻く社会環境の問題を、第2部では希代の社会学者が現代社会と人間疎外について、そして第3部では作家や演出家、マンガ評論家など現代社会に最も関わり同時代的に生きている感性からと、複眼的・多様な解釈や批評でこの事件が物語るもの、この事件を生み出したもの、そして我々がこの事件から汲み取るべきものをさまざまに示してくれる。
 編者である大澤氏は「世界の中心で神を呼ぶ」という評論で、現代社会に生きる若者の精神性を読み解く。「なぜKは『2ちゃんねる』ではなく『Mega-View』に書き込んだのか?」という情報環境研究の濱野智史氏の最近のネット環境の解説とその上に立った分析も興味深い。
 世界恐慌というとんでもない事態に巻き込まれつつある現代。我々はどう生きていけばいいのか。しかしこの評論集を読んで、モンスター化を加速してきたこれまでに比べ、縮小しつつある現在は意外に生きやすいかもしれないと何となく感じた。どうしようもなく孤独で不安で不安定だけど、小さく愛すべき人生を取り戻す。そんな時代のトバ口にいるような気がした。



ブログ論壇の誕生   (佐々木俊尚 文春新書)  2008.10.19

 私も末端のブロガーの一人だと思うけど、佐々木氏の今回の著書では、ブログ世界で繰り広げられる言説がリアル社会を変えていく可能性と限界を、既成メディアや社会システムを牛耳る団塊世代とロストジェネレーション世代の対立という視点を持ち込みつつ、考察していく。
 小泉内閣の郵政民営化選挙の際に果たしたインターネット世界の影響に逆に嫌気が指したという中高年も多かっただろうが、その時をピークにブログ論壇の力が弱まったという指摘に対して、それは単に対立的なテーマがなかっただけで、新たな論壇テーマが現れれば、再びその実力が発揮されるだろう、と著者は言う。
 ネット論壇を担っているのがロストジェネレーション世代という設定が正しいのかどうかも多少疑問だが、安倍内閣・福田内閣の退陣、金融危機の勃発といった昨今の社会的状況に対して、ネット世界でどれだけの議論が巻き起こっているかかと考えても心許ない。
 「ネット論壇が公共圏へ昇華するために」というのが最後のパラグラフの項目名だが、そこまでになるためにはまだ少し時間がかかるだろう。書かれているように、新たなアーキテクチャが必要かもしれない。
 しかし書かれていることはどれもまさに「リアル」で、興味深いことこの上ない。公共圏まではいかなくても、マスコミに載らない多様な視点や立場からの意見や考え、思いを知ることができる今までにないメディアであることは間違いない。巻末につけられた佐々木氏がフィード購読しているというブログのいくつかを私も一度チェックしてみよう。



ナイチンゲールの沈黙   (海堂尊 宝島社文庫)  2008.10.2

 処女作「チーム・バチスタの栄光」はベストセラーになっただけでなく、映画化され、また今月にはテレビシリーズもスタートする。私自身が先々週から捻挫に始まる足のトラブルに見舞われ、外出もままならない中、書店で短時間に物色してこの本を入手。退屈な時間を埋めた。
 ミステリーや推理小説は10代の頃を除いてほとんど読んだことはないし、読みたいとも思ったこともないが、前著はなか楽しんで読んだ。その記憶で読み始めた本書は、最初、そのいかにエンターテイメント調の文体にこんなだったっけと少し後悔をした。それでも読み進めれば、非常に楽しめる展開と情感に訴える内容が、さすが海堂尊と思わせる。
 解説によれば、次作以降もこの東城大学病院を舞台に、複雑に絡み合った展開がされるという。その意味では第2作は「つなぎ」的な作品かもしれない。もちろんこの作品だけでも十分楽しめる。それがさらに輻輳していくというのはなんと楽しみではないか。今回のように少し落ち込んだ時など、心も癒してくれるやさしさが海堂作品にはあると言える。次作が楽しみだ。



治療塔惑星   (大江健三郎 講談社文庫)  2008.9.27

 大江作品の中で女性が語り手となることは少ない、と前作「治療塔」の解説に書かれていた。今作品の解説では、まさにその女性性こそが本書のテーマではないかと書かれている。治療する者としての女性の存在を「治療塔」になぞらえていると。
 そう言われれば、そのように読むこともできるが、私としては、語り手であるリッチャンとお祖母さんが、治療塔を巡っての活動や戦争すらする男たちを見守りつつ、自分たちは自然の摂理に従って老い、死んでいこうと言うところに興味が引かれた。世界宗教の構想なども描かれているが、治療塔とは果たして人類にとっていかなる存在なのか。
 前作の感想にも書いたが、大江健三郎にしては大変読みやすい作品だ。これが書かれたのは、「燃えあがる緑の木」の前(ノーベル賞受賞前)の1991年。もう17年も前のことだが、ようやく文庫本となり、こうして私たちの前に読みやすい形で帰ってきたのはうれしいことだ。



ハイエク   (池田信夫 PHP新書)  2008.9.20

 有名ブロガーでもある池田信夫の言説は、自由主義的で好きではないが、知的所有権に対する批判などには納得できる部分もある。ハイエクという経済学者については、その名前しか知らなかったが、最近耳にすることが多い。書評を読んでも好意的なものが多いので、読んでみることにした。
 池田氏によれば、ハイエクの主張も時代によって変化しているようだが、自由を信奉する姿勢は変わらない。というより、ハプスブルグ帝国が崩壊する19世紀末に生まれ、混乱と貧困の社会不信の中で育ったハイエクには、人間が理想的な社会経済をコントロールできるとする社会主義的な考え方に対する不信感が根にあると言える。そもそも社会全体の目的が特定できない、という指摘が繰り返されるが、その中で、自由を保障することで、社会は進化論的に変化するという思想はわからないではない。
 しかし、たぶんそれは人間社会を生き延びさせる上で最適な社会システムかもしれないが、そのシステムが人間にとって幸せかどうかはわからない。いや人間もそれぞれで、全員が幸せな社会なんてないだろう。
 インターネット社会を肯定する池田氏の思想は理解するが、それを支持することが自分自身の幸せにつながるかどうかは自信がない。人は正しい理論を認めるのではなく、自分に有利な理論を認めるものだから。しかしわからないでもない。池田信夫Blogをこれからもウォッチしていこう。



ローマ人の物語12 迷走する帝国   (塩野七生 新潮文庫)  2008.9.9

 「ローマ人の物語」文庫版の最新巻「迷走する帝国」が発刊されたのでさっそく購入。時代はいよいよ3世紀、五賢帝に続き何とか帝国の権力を保っていたセプティミウス・セヴェルス帝が倒れ、皇帝はカラカラ帝に引き継がれる。しかし失政を重ねる中、謀殺によりその治世はわずか6年で終わり、次々と新しい皇帝が立っては代わっていく混迷の時代に入っていく。
 混迷の要因は、皇帝の失政ということもあるが、蛮族の侵入の激化やササン朝ペルシアの興隆などの外的要因による部分が大きい。こうした環境変化に対して、相変わらず無責任にして体面ばかりを重んじる元老院と属州で蛮族等との戦いに奔走される軍団との確執の中で的確な対応ができず、ますます衰退への歩みを早めるローマ帝国。73年の間に22人もの皇帝が次々と現れ消えていく物語は、読んでいる限りでは変化に富んで面白い。そしてその姿に、現代日本を重ね合わせてしまう読者も多かったのではないか。
 「ローマ人の物語」を通して個人的に関心があったテーマの一つに、「多神教が特徴であったローマ帝国が、なぜキリスト教を受け入れ、キリスト教国家に変貌していったのか」がある。次巻で取り上げられるはずのコンスタンティヌス大帝の時代に、キリスト教の公認があり、そこからローマ帝国のキリスト教国化が始まるが、その要因はこの3世紀にあるとして、第二部第三章「ローマ帝国とキリスト教」でこの問題を取り上げ考察している。結論的に言ってしまえば「ローマ帝国の衰退が始まったから」ということではあるが、ローマ史を取り上げた歴史家のギボンとドッズの批評を取り上げつつ、筆者独自の考えを重ねて書かれた内容は興味深く、かつ説得力がある。
 いつの間にかこのシリーズは年1回発行となったようだ。それくらいがちょうどよいかもしれない。次巻は来年のお楽しみ。



ほんとうの環境問題   (池田清彦・養老孟司 新潮社)  2008.8.29

 「ほんとうの環境問題」というタイトルと、池田清彦の名前に惹かれて購入してしまった。しまった! 養老孟司の名前を借りて、洞爺湖サミットに合わせて出版されたトンデモ本の一つ、という括り方もあるかなあと思うけれど、内容がトンデモ話という訳ではない。しかし、対談や談話を書き起こしたような内容で、洞爺湖サミットを契機に少し環境問題に関心を持った一般読者向けの大衆本という体裁。
 「環境問題とはつまるところ、エネルギーと食料の問題である。」(P5)とか「実は環境問題とはアメリカの問題なのです。・・・簡単に言えばアメリカ文明とは石油文明です。」(P16)といったフレーズにはなるほどと切れ味のよさを感じる。「ほんとうの環境問題」というタイトルもまさに二人の問題意識を示している。環境貢献という心地よい言葉ではなくて、本当のところ今を生きる自分がすべきこと、できることを、環境問題を離れて考えるとき、そこにこそ「ほんとうの環境問題」が立ち現れるような気がする。人間の生と環境の関係として。



異邦人   (カミュ 新潮文庫)  2008.8.27

 内田樹の構想主義に関する本を読んでいると、カミュの名前が何度も出てくる。そこでついに「異邦人」を読むことになった。名作をろくに読まずこの年になったけれど、若い頃に読んだ名作をどこまで理解してきたか心もとない。もっともこれだけくっきりしたストーリであってみれば、当時熱狂的に迎えられたということも理解できるし、年相応の理解が可能だろう。
 不条理が問題なのではない。不条理とどうつきあうかが問題なのだ。そしてそういう社会の捉え方、生き方が構造主義的かもしれない。
 サルトルは若い頃読んだが、今となっては何も覚えていない。今になってサルトルとカミュの論争を読むのは、人生の無駄だろうか。少し興味を覚えた。



現代思想のパフォーマンス   (難波江和英・内田樹 光文社新書)  2008.8.23

 神戸女学院大学文学部の二人の英才、難波江和英氏と内田樹氏とによるソシュールを始めとする6人の現代思想家(他に、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイード)の解説書である。解説書であるが、案内編、解説編に加え、実践編が加わっている。解説された各思想を映画や小説評論に適用することで、今まで漫然と読んでいた作品がいかに違った映像でくっきりと見えてくるかを実践し示している。
 まえがき、あとがきでも書かれているが、基本的に現代思想に関心を持つ学生や院生を対象に、現代思想への誘引を目論んでいる。今まで読んだどの解説書よりも非常にわかりやすく書かれている。しかし「新書版のためのあとがき」の最後には、「中には、かなり単純化した解釈を施しても見せたものもある。でも、それはその解釈で『解釈を終わらせる』ためではむろんない。そうではなくて、読者の中に『そんなわかりやすく書いていいんですか、ほんとに?』という懐疑を誘発するためなのである。その懐疑から、みなさんのパフォーマンスは開始されるはずである。」(P430)と書かれている。そう、あくまでよくできたプロバガンダ書なのである。
 そう言われても、若いみなさんと違って、この年になってこの本を読んだ私としては、新たなパフォーマンスを開始する元気はないが、いつまでも書棚に並べて、何か疑問が出たときに振り返る本として重宝することになると思う。よくできた本である。



こんな日本でよかったね   (内田樹 バジリコ)  2008.8.10

 副題は「構造主義的日本論」。それはそのとおりだが、「『構造主義』がわかるとちがう日本が見えてくる」という帯はいかがなものか? 確かに内田樹が説く教育論や格差問題、日本辺境論などは面白いが、だから構造主義がわかるというものでもない。しかしメディアが報じる偏見的社会観を疑い、ウチダ的視点から社会を見直すのは、社会に対する視座を客観的なものとし、精神衛生上もよい。
 「404 Blog Not Found」で小飼弾氏が「著者自身が、日本という構造による受益者なのに、その負担を「他の日本人」、もっと具体的には「著者より若い日本人」に求めているようにしか読めない」と書いているが、確かにそうした読み方もあるだろう。何より帯を批判しているのには同感。でも、そんな日本の中でどう生きていくのか(どう変革するのかではなく)と考えたら、内田氏の構造主義的社会観は大いに参考になると言える。



逆接の民主主義   (大澤真幸 角川oneテーマ21)  2008.8.8

 「逆接」とは「逆説」ではなく、対立する語句を結びつけるという意味。通常の民主主義を乗り越え、「民主主義以上の民主主義」を提案する。それは、対立する両者の問題解決を図るために、第三者的委員会方式を導入し、かつ当事者は委員会には直接コミットせず、媒介者を通じることで、当事者が必然と信じていた者を偶有的なものへと転じ、客観的な判断・結論に導くというもの。読めばそんな気もするが、提案が非常にテクニカルなのに対して、これをラカンやロールズ、ジジェック等の思想を総動員して証明していくのは、かなり難解。それでも、民主主義の限界やグローバル化批判には納得する。
 そもそも雑誌に連載した社会・思想に関する時評をまとめたもので、(1)北朝鮮を民主化する、(2)自衛隊を解体する、といった具体的な問題に、筆者なりの具体的な提案をしている。例えば、前者については、「北朝鮮難民を積極的に受け入れることにより、北朝鮮の民主化をめざせ!」、後者については、「自衛隊を解体し、内紛地帯に飛び込み難民に直接援助をする部隊Xをつくれ!」と提言する。
 そしてその筋道で、ハーバーマスとデリダの論争やキリスト磔刑の意味を問う。その理論展開を追うのがとても面白い。なかなか刺激的な論文である。



パレード   (川上弘美 新潮文庫)  2008.8.3

 「センセイの鞄」のサイドストーリー。センセイとツキコさんの、暑い土曜日の昼下がりのひとときに、ちゃぶ台を挟んで寝転びながら語る昔話。子どもの頃、みんな、あなぐまやろくろ首や砂かけばばあなどの妖怪に守られながら育っていた。そしていじめに悲しむ天狗。なつかしくあたたかくほっこりとした川上ワールドが広がる。
 でも、そろそろ卒業してもいいかな、と思った。あたたかいだけではない世界に向けて。ありがとう、川上弘美さん。



宇宙旅行はエレベーターで   (ブラッドリー・C・エドワーズ/フィリップ・レーガン ランダムハウス講談社)  2008.7.27

 図書館でいかにもSFっぽい宇宙ステーションの装釘が目に留まった。「宇宙旅行はエレベーターで」なんて、スペース・ラブ・ロマンスみたいで面白そう・・・と思って手に取ったら、これがなんと真面目な「宇宙エレベーター」技術と構想に関する一般向け啓蒙書。著者の一人、ブラッドリー・C・エドワーズは米国ロス・アラモス国立研究所に在籍していた物理学博士号を持つ科学者。宇宙エレベーターは、ロケットの最大な欠点である莫大な費用とエネルギー消費を解決して、宇宙空間へ人類を導く実現可能な技術だと言う。
 静止軌道上から上下にバランスを取りつつケーブルを伸ばしていくことで、一端は地上に、もう一端は10万km先の中空に届き、地球とともに回転する。地球から見れば宇宙エレベーターがすっくと立ち上がり静止する。そのケーブルをクルーザーが上下し、宇宙へ人類を運ぶ。読んでみれば確かにできないことではない。技術的な唯一の問題が鋼鉄の180倍の強度を有するケーブル素材の開発だったが、それもカーボンナノチューブの開発で夢ではなくなった、と言う。
 こうした基本的原理や建造方法、地上側の出発地点アースポート建設地の選定検討、事故等の安全性検討などの技術的な解説の後は、建造・運用主体とその可能性、軍事防衛上の検討など、政治的・経済的な検討まで行っている。さらに、宇宙観光旅行や月の宇宙エレベーター、火星の宇宙エレベーター、さらにその先の惑星や宇宙への旅など、夢の世界に想像力をはばたかせる。
 冷静に考えると、(筆者も指摘しているが、)NASAがロケットを捨てて宇宙エレベーターへ全面的に方向転回することの難しさや、最近の米国の経済的な変調、政治的な変動、さらには資源の問題など、筆者たちが想定するような2025?30年の実現というのは難しいと思うが、政治経済の世界変動の中で、思いがけない方向から実現しないとも限らない。本当に実現したらどんなにか楽しいことだろう。



治療塔   (大江健三郎 講談社文庫)  2008.7.21

 大江健三郎初のSF的小説ということで当時話題になった。今回ようやく文庫本となり読むことができた。若い女性の視点から書き上げた小説という点でも、大江健三郎初ではないか。
 あからさまに近未来の時代を舞台にしたということではSF的と言えるかもしれないが、これまでの大江の世界も現実感から遊離していたことでは、ある意味SF的だったのではないか。そして、大江作品の中心的テーマである「新しい宗教」を担う「夢を見、語る人」の末裔や大江の障害を抱えた息子であるヒカリまでも登場する。そしてイェーツの詩が重要なモチーフとなり、ブレイクまでが登場する。大江文学の系譜に則った作品といえる。
 テーマは、「科学の時代の人間の罪と蘇り」といったところか。リッチャンと朔ちゃんの愛の展開は、今までの大江作品の中でも読みやすく、引き込まれるように読み終えてしまった。



街場の現代思想   (内田樹 文春文庫)  2008.7.14

 「街場の中国論」は面白かった。「街場」シリーズの第一弾として一度読みたいと思っていたら、文庫本として発行された。解説で橋本麻里が書いているように「平積みにされた本書を目にするや直ちに手に取り」買ってしまったが、まずこの解説を見てから判断すればよかったかも。「30代、未婚、子なしであるワタクシ同様の、『負け犬属性』読者の大量ゲット」が橋本氏の使命だったようだから。
 「現代思想」というタイトルから、レヴィナスやラカンなどの内田先生の専門分野に関する思想をやさしく解説する本かと勘違い。考えてみれば、レヴィナスやラカンが「現代」思想であるわけはなく、この本には内田流処世術による人生の生き方・見方がいつものとおり縦横無尽に書き連ねられている。いや、面白い。
 まあでも前半の「文化資本主義」に関する章はいかがなものか。「文化資本の逆説」で説くとおり、文化資本に殺到することで逆に階層社会の出現を先送りすることにつながる、とたとえ力説されても。階層社会を防ぐ手だてはそんなつまらない方法しかないのかと。



"環境問題のウソ"のウソ   (山本弘 楽工社)  2008.7.6

 読み終わりました。武田教授が自分の主張を伝えるために、かなり無理な説明を重ねていることはよくわかった。それでも軍配は武田教授側に上げたいと思う。なぜなら、武田教授は環境問題に対して伝えたいことがあり、山本氏には独自の視点や主張が見られないから。唯一、環境負荷による外部費用を正確に見込めない中で、「心の中の外部費用」に従う、という説明は独創的かもしれない。しかし環境問題に対する姿勢という点では、両者ともあまり大差ないのではないか。その中でも、武田教授が伝えたい、と考えていることは拝聴に値する。
 すなわち、(1)ペットボトル・リサイクルを進めることがペットボトルの製造をますます増やし、石油の使用量を増やすことになった。免罪符としてのリサイクルに対する懐疑。(2)京都議定書は政治的な思惑が大きい。それを根拠に二酸化炭素削減施策を講じることの嫌悪。本当に二酸化炭素削減を進めるのならば、国民に対するレジ袋削減や省エネ運動よりもやるべきことがあるのではないか。(3)環境施策が合理的でない。その影に政府と経済界の癒着がないか。マスコミも政府や広告主の意向に沿った偏向的な報道や情報誘導をしている危惧がある。などだ。
 これを読みつつ、団塊の世代の前後という両者の年代差や、理系科学者と文系小説家の違いを感じた。SF小説やファンタジーなら何を書いても許されるが、科学者が一般向けに書くものには一片の間違いがあってもならない、という姿勢には疑問を感じる。武田教授にとってリサイクルや環境問題は、正確な意味での専門分野ではないと思われる。しかし自分の専門に近いところで繰り広げられている論争や政策に対して、日ごろから感じていることを書いてみた。確かに筆が滑った、または知ったかぶりをしてしまった、という部分は多いかもしれないが、その最初の直感「何か変じゃないか」は無視すべきではないと思う。「ト学会」とやらもこんな突っ込みをする暇があったら、もっと突っ込むべき対象があるのではないか。



環境問題はなぜウソがまかり通るのか2   (武田邦彦 洋泉社ペーパーバックス)  2008.7.4

 2008年は京都議定書の目標期間の初年度にあたるということで、政府やマスコミが環境問題を取り上げることが多くなってきた。そしていよいよサミットが近づくにつれて、その頻度も高くなってきている。しかし日本(とカナダ)ばかりが目標を達成せず、アメリカはさっさと逃げ出し、中国やインドは知らんぷり、という状況の中で、最近はロシアの排出権を金で買って達成しようなどという話まで出てきて、どうしてそこまで達成にこだわるのか、達成できないとどのような不都合が起こるのかわからない、といった感じを持っていた。
 加えて、IPCCの第4次報告あたりから地球温暖化の二酸化炭素説というのは必ずしも確定的ではない、先進諸国が後進国の経済発展を押さえ込むための謀略だ、といった話まで聞くに及んで、いよいよ環境問題に対する関心が高まってきた。
 「疑似科学入門」も終わりに近づいた頃、ふらっと立ち寄った書店で、本書と前著「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」にその批判本「"環境問題のウソ"のウソ」が並べられていた。あまり時間がなかったこともあり、本書とその批判本を衝動買い。続けて読もうと思った次第。
 前著については、「たかじんのそこまで言って委員会」で取り上げられたこともありベストセラーになったそうだが、地球温暖化と京都議定書を中心に取り上げた本書は、当面の私の関心にもジャストフィットし、とても面白く読み進めた。そして納得。多少筆の滑っている部分もあるのかもしれないが、基本的な方向や態度は正しいものと思われる。
 これに対して続いて読もうと思う批判本はどう展開するのか。興味深いような恐ろしいような。今のところの気持ちは、本書側の圧勝、という印象なんですが、どうでしょう。



疑似科学入門   (池内了 岩波新書)  2008.7.3

 刊行され書店に並べられた時に買おうかなと思ったけど、しばらく見送ったら店頭でトンと見なくなった。予約してようやく入手したらもう第3版。売れてるんだ。
 疑似科学といえば、前にカール・セーガンの「人はなぜエセ科学に騙されるのか」を読んだことがあるけれど、本書は疑似科学を、占いや超能力等の第1種疑似科学、科学を乱用・悪用してビジネスと結びついた第2種疑似科学、そして地球温暖化などの複雑系ゆえに科学的に解明し尽くされていない問題を扱う第3種疑似科学と、3種類に分類している点が新しい。特に第3種疑似科学という分類は本書独自の分類だということで書評などでも評価されていた。
 この第3種疑似科学への対処法として「予防措置原則」の適用を訴えている。それもわかるが全てがそれで割り切れるわけではない。筆者自身「とはいえ、予防措置原則の誤った適用には気をつけねばならない。(P188)」と書いており、その限界も理解しているだろうが、予防措置原則で対処できない、又はどの程度で対応することが適当かさまざまな意見や考え方がある、といったところで論争になっているのだと思う。
 地球温暖化論争然り。耐震偽装事件に対する過度のピアチェック制度然り。
 結局、筆者が言うように、自分の頭で考える習慣を持つことが一番の対策なんだろうと思う。



偶然の祝福   (小川洋子 角川文庫)  2008.6.24

 「失踪者たちの王国」を始め、不倫の結果生まれた少年とペットと犬とともに暮らすシングルマザーの小説家をめぐる7編の連作短編集である。子どもの頃のお手伝いさんとの物語や不倫相手の指揮者との出会い、処女作誕生の秘密など、時を前後する様々な物語がランダムに並んでいる。「偶然の祝福」というタイトルはどこからつけられたのだろう。7編それぞれが偶然の小さな出来事で彩られている? それとも、作者にとっての偶然から生まれた珠玉たちと言った意味か。
 「失踪者たちの王国」のタイトルにあるように、相変わらず小川作品では多くのモノが失われていく。モノ、ヒト、コト、コトバ・・・。それを自然に受け入れるのが小川作品の常だが、解説の川上弘美が言うように、「キリコさんの失敗」だけが、なくなったものがキリコさんの手によって蘇ってくる。いなくなってしまうのはキリコさん自身だ。思えば「博士の愛した数式」でも、失われる記憶をつなぎ止めるための装置としてのルートくんが、失われないものとしての存在を主張し、我々をほっとさせた。それゆえの大ヒットなのだろう。
 小川作品を読むとは、失われるものの対照に、本当に大事なもの、存在の根となるものを探す旅をすることかもしれない。



イスラム金融入門   (門倉貴史 幻冬舎新書)  2008.6.21

 「イスラム金融」と聞いて「グラミン銀行」のことだと思った。バングラディッシュで貧困層の主婦向けに始められた無担保小口融資制度が高い返済率に支えられ生活改善に大いに役に立っている。06年のノーベル平和賞を受賞したことで一躍有名になった。しかし、グラミン銀行は利子の取引を伴うので正確にはイスラム金融ではないと言う。イスラム金融とは、利子が禁じられたイスラム圏で、投機的行為の禁止や豚類・酒類・武器・ポルノなどの使用を禁じるなどのイスラム法「シャリーア」に適合した金融取引を指す。仕組みを見ると、投資信託を取り扱う信託銀行のようなものか。
 原油の高騰で潤うオイルマネー。9.11以降、イスラム回帰の傾向の中、昨今のサブプライムローン問題も相俟って、膨大なムスリムの金融資産が米国の金融機関等から引き上げられ、イスラム金融が世界的に拡大しているという。加えて、イスラム圏の諸国では今、オイルマネーを生かした多角的な経済施策が進められており、ポストBRICsとして注目を集めている。さらに、そのオイルマネーの投資の受け入れ先として、イスラム金融を整備する国々も多いという。
 本書はイスラム金融の説明にとどまらず、今後の経済発展が見込まれるイスラム圏やBRICs諸国の現況を網羅的に披露していくが、読みながら、こうした経済発展がもたらす地球環境への影響が心配になった。金儲けだけを考えていていいのだろうか?それとも田中宇氏が言うように、環境問題はイスラム圏諸国の発展を阻害するための先進国の陰謀なのだろうか。



ひとりでは生きられないのも芸のうち   (内田樹 文藝春秋)  2008.6.18

 内田先生お得意のブログ・コンピレーション本。いずれもどこかで聞いたことのあるような話の繰り返しだが、それがこころよい。「そうだよな、そうだったよな」と読むたびに思い出し、自らを慰め、生きる糧としている。
 最近、内田先生のブログに、長々と批判的コメントを書き込む人が現れた。この人は内田先生の表明する思想や考え方が微温的・偽善的で我慢ならないらしく、執拗にコメントを書き込むとともに、コメント欄で内田教信者(!)とバトルを繰り返している。賢い内田教信者はとうにコメント欄を読んでいないだろうけれど、先日、少し暇だったのでコメントを読み込んでみた。うーん、疲れた。
 何が正しいのか、は結局分からないし、各人が納得した人生を歩むことしかできない。その上で、「ひとりで生きていこうなんて思わない方がいいよ」と助言をしてもらうのは、肩の荷が下りる気がする。結局、それは各人の心の問題で、しかし多数の人の考え方、行動が社会の方向を決める要素の一部になることはあるだろう。どうなってもしょうがないし、自分も同じ時を生きたという点で責任の一端を感じるけれど、同時にどんな時代であろうと、立ち会えたという喜びを感じることができればと思う。
 ひとりでは生きられないけど、ひとりで生まれて死んでいくのも事実。ならば人間関係も含め全てをトータルで受け入れて生きていくのがいいのではないか。本書の最後の2編、「あなたなしでは生きていけない」と「愛神愛隣」はそういう意味で心温まる励ましのエッセイである。だから内田教はやめられないのですが。



不可能性の時代   (大澤真幸 岩波新書)  6/11

 時代が大きく変化しつつある、そうした感覚は最近誰しも抱いていると思う。気鋭の社会学者・大澤真幸氏はそれを、戦後から1970年頃までの「理想の時代」、1995年頃までの「虚構の時代」を経て、「不可能性の時代」に入っているからであると説明する。アメリカやマイホームが天皇に代わる理想を提示した「理想の時代」、東京ディズニーランドやオタク文化に代表される「虚構の時代」はある程度わかりやすい。これらについてそれぞれ1章ずつを割き分析した後に、「オタク現象」に潜む次の時代への変化、リスク社会をテーマに、「第三者の審級」(見えざる手、理性、予定説の神)の喪失・撤退が起こっていると分析し、現代は「不可能性の時代」に入っていると述べる。
 「不可能性」とは何か?ということについて、十分理解できたわけではない。しかし、第三者の審級の不在、撤退というのは実感できるし、同意する。同時に、<他者>との関係もまた。第6章の「政治的思想空間の現在」では、この「求めると同時に忌避する」という関係が「物語る権利」と「真理への執着」というテーゼに置き換えられ、多文化主義と原理主義の相克と同一といった推論に深化していく。どんどん深まる推論はいよいよ難解で追い付くのがやっと、という状況ではあるが、「超越的な他者−第三者の審級−の不在」や「求心化/遠心化」の心的活動の二重性といった説明は説得力があるし、それこそが我々の不安定な心性の源泉であると納得する。しかるにそこからの救いはあるのか?
 「結 拡がり行く民主主義」では、「小さい世界」の理論(人は6次の隔たりで世界中の人とつながる)を根拠に「活動的な民主主義」に期待と希望を求める。が、現状はまだほとんどの人がそれで救われるとは感じていないだろう。不可能性の時代。可能性は本当に「活動的な民主主義」で開かれるのだろうか。



蛇を踏む  (川上弘美 文春文庫)  2008.5.28

 川上弘美の芥川賞受賞作品。「古道具 中野商店」から川上作品に入った私としては、「椰子・椰子」で少し経験したとは言え、これが初のいわゆる「川上ワールド」体験。どことなく先日読んだ内田百閧思い出す。現代版内田百閨Bなるほどこれが川上ワールドか。
 人間と動物、生物と無機物、夜と昼、時間と空間、日常と非日常、規律と不定形。さまざまなモノがカタチが自由奔放にその形を変え、その変容を少しの戸惑いを感じつつも「しょうがない」「こんなこともあるのね」といった感じで受け入れていく。
 蛇が耳から体内に入り込み、蛇水が全身にくまなく行き渡っていく描写などは少しおぞましさを感じるが、快感すら感じつつ受け入れてしまう姿は実に「難儀である。」同時にユーモラスですらある。結局全てを受け入れてしまうから「なんでもあり」である。そこに女性性を感じるのは僕だけであろうか。
 表題作「蛇を踏む」の他、奇妙な慣習を当然に受け入れる家族とそんな家族ばかりの奇妙な世界を描く「消える」、変容する少女と動物を主題とした19の変奏短編からなる「惜夜記」の3編からなる。自由奔放な「惜夜記」にはさすがについていけない気分になる。おそろしや、川上弘美。



高度成長-シリーズ日本近現代史(8)  (武田晴人一 岩波新書)  2008.5.10

 戦後10年。朝鮮戦争も終結し、日本は国際社会の中に自立していくことが求められるようになった。1955年から始まる20年間は、アメリカの顔色を窺いながら、韓国や中国その他の対戦国との戦後処理を行いつつ、国際社会での地歩を築いていった時代だった。同時にそれは現在に至る戦後日本の特異な国家性格を規定する「高度経済成長」の時代だった。日本にとって経済成長とは何だったのか。本書の最後に綴られた次の記述は、その疑問を厳しく問いかけている。

 1955年からの20年間を本書では概ね5年毎に次のように捉える。1955年から60年までの政治の季節。65年までの経済の季節。70年までの開放経済体制への移行を迫られ経済大国日本を実現していく時代。そして狂乱物価と金権政治に伴い成長が終焉する75年まで。最後の「おわりに」では80年代の安定成長を正確に捉えられずバブル経済へ突入していく時代を概括的にまとめているが、そこに描かれている社会経済や政治は、もう戦後の経済成長時代とは違う時代のものだ。ここは次巻の「ポスト戦後社会」で詳しく記述されるだろう。改めて、55年から75年までの20年間がいかに特異な時代だったのかが理解される。
 また、憲法改正問題が、戦後わずか10年の55年の時点で既に大きな政治の焦点となっていたことに驚く。「戦後60年を経て、憲法も陳腐化」という言説がいかにまやかしであったか。結局それは国際情勢の中で日本をいかに運営していくべきかという外交問題であり、政体の問題である。
 鳩山内閣から岸内閣、池田内閣、佐藤内閣と続く中で、国民の期待と失望はジェットコースターのように上下する。しかし大半は20%前後に低迷する内閣支持率の中で、次第に政治は国民から離れ、派閥や政局政治に終始するようになる。田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘とめまぐるしく首相が変わっていった時代である。政治は次第に国民から離れ、我々は経済状況にばかり一喜一憂する。政治は経済成長のためにあり、経済成長こそが国民の幸せの尺度だと考えた時代。先に引用した「成長の神話」の時代である。そうした時代が、村上や堀江を時代の寵児とするような歪で不安定な現在日本につながっていく。近現代史を振り返る重要性の一端を認識する思いがした。



内田百閨@ (内田百閨@ちくま日本文学)  2008.4.26

 内田百閧ヘいつか読みたいと思ってきた作家の一人だ。卓抜した随筆家ということは聞いていたが、書店で何度か「阿房列車」シリーズの一部を立ち読みしては、「難しそう。難しい割には意味なくつまらないかも」と購入までには至らなかった。
 今回ようやく手に取って、その面白さに脱帽。確かに面白く、そして意味もない。日常の些末な出来事や心に去来するつまらない事共を書き綴りながら全く飽きさせない。そこがすごい。
 なかでも「餓鬼道肴蔬目録」には面食らった。解説の赤瀬川原平も書いていることを繰り返すのも芸がないが、戦時中で食物が乏しい中、記憶の中のウマイ物、食べたいモノを書き記す、としてただただ食べ物の名前が延々と書き連ねられている。「とにかくシルエットとしては現代詩である」(P459)という解説文には思わず笑い出す。
 もう一つ気に入ったのは「無恒債無恒心」。借金を重ねる自分を開き直って「お金の有り難味の、その本来の妙諦は借金したお金の中にのみ存するのである。」(P352)とのたまう。確かに百鬼園先生、ただものでない。
 根っからの随筆家かと思ったら、百關謳カ、夏目漱石の門下生にして、初期には短編小説を書いていた。この作品集にも前半の1/4程は短編小説が集められている。これがまた不思議な作品ばかりである。夢を綴ったに違いない。先日読んだ川上弘美の「椰子・椰子」と同様の奇想天外な話がいくつも集められているが、いずれも夢のように不思議な感慨を残してすっと消え去っていく。「山高帽子」や「サラサーテの盤」のような私小説もなかなか味があって、しかし切れのいいビールのように嫌な後味を残すことなくすっきりと消え去る、読み心地の良さ。
 こうした切れや読み心地感こそが内田百閧フ神髄かと思う。面白い。



ニシノユキヒコの恋と冒険  (川上弘美 新潮文庫)  2008.4.11

 五十肩もだいぶよくなってきたが、まだまだ気を許すと再発しそうで恐い。ストレス性?なので心にやさしい読書をしようと、買い貯めた本の中から川上弘美をチョイス。
 ニシノユキヒコを巡る恋愛話が10話。それぞれ違う時代、違うシチュエーション、違う性格の女性によるニシノユキヒコとの恋愛を、女性の目から綴る連作という仕立て。「クールに見えるけれども、存外勤勉で努力家の、西野くん」(P132)は、「するりと女の気分の中にすべりこんでくる種類の男性」(P200)で、「女自身も知らない女の望みをいつの間にか女の奥からすくいあげ、かなえてやる男」(P201)である。男性からすればうらやましいような気もするニシノユキヒコだが、実は自分のために愛を求め女性を求める情けないダメ男である。人間的にあまり魅力があるわけでもない。だからこの本はニシノユキヒコの物語ではない。実は男性は誰でもいい。女性の愛と恋の物語である。
 10の愛の形。女性たちは意外に冷静で計算ずくで自立している。そして恋に落ちる自分をコントロールし、確信的に身を委ね、冷徹に別れを告げる。恋と性と生の間の微妙なバランスを生きていく女性たち。女性の読者からは彼女らはどのように映るのだろうか。作家の藤野千夜は解説を次のように締めくくっている。「ニシノユキヒコとは、私たちがつかみそこねた愛の名前なのだ」(P279)



椰子・椰子  (川上弘美 新潮文庫)  2008.3.23

 不思議なタイトル。「長男が小さいころ・・・『おやすみなさい』のことを『やしやし』って言ってたので」(P120)。不思議な話の数々。「もともとこれは自分の夢日記から始まったものなんです」(P120)
 春夏秋冬。春に15日分、夏に14日分、秋に22日分、冬に11日分の日記と各季節4つの短文+「ぺたぺたさん」のおまけ短文。挿絵の山口マオ氏との対談(挿絵がまた秀逸)まで、楽しさ満載。
 夢と言われれば確かにそんな、突飛、荒唐無稽、ご都合主義な楽しい話がいっぱい。それでもそのゆったり感、まったり感、ほんわか感、ふわふわ感がとっても気持ちいい。これが噂の川上ワールドか。いや、「センセイの鞄」や「古道具 中野商店」にも通じる懐かしさややさしさも感じられる。全体を通して川上弘美。アタリマエ。しばらく川上弘美、読み続けよう。



疲れすぎて眠れぬ夜のために  (内田樹 角川文庫)  2008.3.8

 この本は内田樹初の「語り下ろし」本だと言う。「語り下ろし」? 「書き下ろし」かと思って読み過ぎて「ん?」と戻って見直した。10時間余りも編集者たちの前で、時にワイン片手に語り続け、テープ起こしをしたら「はい、出来上がり」。
 んな訳には行かず、その後、全面書き直しの悪戦苦闘が待っていた、というのが「文庫版のためのあとがき」に書かれたオチだが、確かにそうして出来たと思わせないでもない。何より、他のブログから作った本に比べ、全体に流れがある。前出の言葉や文章を受けた記述がここ彼処に見られる。全体としては、「生きるということ」、「働くということ」、「身体」、「アイデンティティ」、「家族」と大きく5つの章に別れているのだが、章をまたいで遥か前の表現を受けて「前にも言ったように」と書かれる箇所が何カ所も見られる。そうそう、「言ったように」とまさに語りの言葉で記述される部分も多い。
 そうしたこの本独自の特徴はさておき、そればかりでは先生指摘の「午後5時11分01秒と02秒の間の黄昏の色調の差異」の析出に夢中になっているだけの人間になってしまう。でも内容はいつもの内田節。その変奏を楽しむのがファンの心理にして真理。
 注意深く読めば、「利己的」に生きようとすれば相当な我慢や努力を強いられ、「我慢をしない」生き方とは矛盾するようにも思うのだが、それは人生を杓子定規にとらえる囚われた生き方であって、もっと柔軟に利己的に自分らしく型を受け入れ、そうして矛盾をいっぱい抱えて生きていくのが、人間らしい生き方なんだろう。自分って存在は常に複数いて、しかも常時変化をしていく。自分のない自分らしい生き方がいいんだろうと思う。
 ところでこの本の解説、銀色夏生さんが書いている。銀色夏生って名前は知っていたけど、これまで絶対手に取ってみたことのない作家だった。今回初めてその文章を読んで、「あれ?銀色夏生って女性?」。そこで検索してみました。内田先生のブログに初めて銀色夏生さんに会った時のことが書かれていた。先生も男性と思っていたんですねえ、それも私同様の先入観を持って。そこも面白かった。午後5時11分03秒の出来事ですが。



羊をめぐる冒険  (村上春樹 講談社文庫)  2008.3.2

 「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」と来て、僕と鼠の物語は最後に「羊をめぐる冒険」で完結する。ジェイに見守られて。美しい耳のガールフレンド、いるかホテル、羊博士、羊男・・・ユーモラスで魅力的なキャラクターに囲まれながら、僕の、星形の斑紋を持つ羊と鼠を追う冒険は、最後に北海道の奥地で謎めいた大団円を迎える。
 読みながらこれは「海辺のカフカ」に似ているな、と思った。いや順番から言うと逆なんだけど、似ているということ。
 内田樹に触発されて読み始めた青春3部作。村上作品は全部読んで来たと思っていたけど、家に本が見当たらず、「1973年のピンボール」と「羊をめぐる冒険」は今回新たに購入してしまった。でも少なくとも「羊をめぐる冒険」は前に一度読んだ事がある。楽しい作品は何度読んでも楽しい。ウキウキ。
 村上春樹の魅力は主人公(多くの場合「僕」)が実に普通に肩肘張らず日常を送っている、平凡な存在だというところだ。ジャズを好んだり、バーでビール飲みながら時間を過ごすのは、本当のところは自分とはすごく違うけれど、なぜか
同一感を感じる。人生なんて意味ないよ、なんて一般論で自分を慰めつつ平凡に生きようとする。そんな僕=読者自身がいつしか非日常の世界にスリップして世界滅亡の邪悪な陰謀を未然に防いでいく。とってもハートウォームでワクワク。
 これだから村上作品はやめられない。次は「ハードボイルド・・・」にしようか「ノルウェイの森」にしようか。どちらもけっこう忘れてしまっているし。



センセイの鞄  (川上弘美 新潮文庫)  2008.2.16

 この「センセイの鞄」は2001年のベストセラーだったと言う。特に中高年男性に評判が良かったそうだ。私の回りでそんなオヤジは見かけなかったのでよく知らなかったが、70過ぎの老人と40前の独身女性との恋愛を描いており、さては自分もと思った輩がいたか。しかしこれは本当に恋愛小説なんだろうか。
 「これが短編小説だったら、恋愛にすら発展しなかったかもしれない。」(P296)とは解説の斉藤美奈子氏の一文だが、「古道具 中野商店」のヒトミさんに通じるぼやっとして基本的に受け身の姿勢で生きてきたと思われる女性の心情の変化が巧みに描かれ、静かにほんわかとした気分になる。まさにそこにこそ、作者の書きたかったことなのではないかと思う。多分、中年オヤジよりはツキコと同年代の女性たちに支持されただろうナア。
 「あわあわ」と流れる時間。「ぼわぼわ」としたおしゃべり。「ほとほと」と扉が叩かれ、かもめは「ざわざわ」。「ふわふわ」とした笑い。「ごつごつ」と目のつんだ木綿豆腐。・・・川上氏の小説はこうした重ねられた擬音語のような表現が彼処に書かれ、時の流れをやさしく後押しする。それも魅力の一つ。
 本書は先に読んだ「古道具 中野商店」とよく似てる。川上氏の初期小説はもっと幻想譚らしい。もう少し読み進めてみようか。



占領と改革-シリーズ日本近現代史(7)  (雨宮昭一 岩波新書)  2008.2.12

 日本は終戦とマッカーサーの占領統治により、それまでの邪悪な軍国主義を一掃し、民主的な近代国家に生まれ変わった。僕たちは長らくこうしたステレオタイプの戦後観に浸ってきた。しかし本当にそうだろうか?

 日本の戦後体制が作られていく下地は既に戦争中の総力戦体制の中にあり、それどころか、総力戦体制によって、日本の社会改革が進められていた。

 確かに総力戦体制にはそうした側面があっただろう。当時の政治潮流として、東条英機らが率いる国防国家派、下からの平等化をめざす社会国民主義派、吉田茂などの自由主義派、そして明治時代への復帰を考える反動派の4つがあり、反東条派の流れが日本の早期終戦を可能とし、自由主義対修正資本主義の対立構図を作っていく。それはGHQの参謀第二部と民政局との対立に呼応し、55年体制構築へつながっていく。
 政治オンチには難解な文章表現が多く、正直、未だによく理解できない部分も多いが、大局はそうした理解でいいと思う。この自由主義対修正資本主義の対立構図が現在の政治潮流にも脈々とつながり、グローバリズムという新自由主義のお化けとなって日本を世界を覆っている。現代の幸福はどこにあるのか。占領体制という歴史を客観的に評価することで、今後進むべき道が明らかになるだろうか。少なくとも我々は何に囚われているのか、そうした第3の視点から考える視座を与えてくれるのではないだろうか。



1973年のピンボール  (村上春樹 講談社文庫)  2008.2.6


 相変わらず村上春樹の文体はいい。軽くて都会的に明るく乾いている。同時に、ウェットで哀しくユーモラスにして心にジンと来る。相反する印象を同時に感じることを評して、内田樹は「倍音的な文章」と言ったが、確かにそうかもしれない。
 この小説の主人公である僕と鼠も相反する精神状態の中で、それぞれの青春を生き、そして旅立つ。鼠は、閉塞感に苛まれ、無を指向する。

 一方、僕はいろいろあっても前向きな態度をやめない。

 そして一度は廃棄処分されたピンボールに再会し、愛を交歓する。彼らを取り巻くジェイや双子、講師、そしてピンボールすら、彼らの回りで暖かい。救いは周囲に満ちている。僕らはそれを信じて、できることを真面目にこなせばいい。そうやさしくささやき、慰めてくれる。
 青春3部作というのだそうだけど、その第2部は、なつかしさと温もりの中で静かに幕を閉じる。



ネット未来地図  (佐々木俊尚 文春新書)  2008.2.3

 web2.0以降、IT・ネット関連の本を各新書等で精力的に著している佐々木氏。それらの中でもこの「ネット未来地図」は、近い将来のIT界の方向を20の論点で整理しており、わかりやすい。
 20の論点はさらに5つにグルーピングされている。ビジネスとインターネット、インターネット業界、メディアとインターネット、コミュニケーションとインターネット、未来とインターネットの5つだ。プロローグに書かれているとおり、「ここに書かれている20の論点は、それらビジネスの実現可能性を包括的にとらえる試みである。」(P11)
 つい先頃、マイクロソフトがヤフーに買収を持ちかけたというニュースが話題になっていたが、一人勝ちに見えるグーグルでさえ、既に新しい波の中では旧態勢力になりつつある。それほどまでにこの世界の変化と進歩は早い。せいぜい置いてけぼりを食わないように、少しでも知識を吸収し、理解しておきたい。それにしてもTwitterは知らなかった。もうすでに遅れ気味?
 20の論点の中では、TVや雑誌、新聞などの旧態メディアの将来像を予測する部分が最も興味深かった。そして広告を越えて「リスペクト」を収益化しようという方向性が示されているが、今後の変化が楽しみだ。



風の歌を聴け  (村上春樹 講談社文庫)  1/31

 「村上春樹にご用心」では、村上春樹の初期の3部作、「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」からの引用が多かった。羊男や鼠、ジェイバーには覚えはあったが、どういうストーリーだったか、さっぱり思い出せないので、実家に帰った際、この本を引っ張り出してきた。読み返してみると、そう言えば昔読んだかな?
 内田樹は、基本的に村上春樹の小説は、平々凡々な日常を送る主人公が不条理な出来事に巻き込まれ、人生ってそんなもんだよねと日常に戻る話、と説明しているけど、この初期作品「風の歌を聴け」では、主人公の僕は特別わかりやすい不条理な事件に巻き込まれるわけではない。でも鼠や小指のない女が、僕に知らないところで何かに巻き込まれ、そして僕のところへ戻ってくる。僕は少しドギマギするけれど、ちょっと刺激的な夏も終わり、東京の大学に帰っていく。そんなまったり感とドキドキ感とクールさと温もりが村上春樹らしくてイイ。
 さて次は「1973年のピンボール」を読もう。

 何となく、「星の王子様」の書き出しを思い出す。次もいかにも村上春樹らしい表現、二つ。

 次は、村上春樹が小説を書き始めた動機か?  風に託したものとは何か?



「法令遵守」が日本を滅ぼす  (郷原信郎 新潮新書)  1/23

 1年ほど前に発行された本で、一時書店に平積みされていましたが、最近はあまり見かけなくなったカナ。友人から借りて読みました。著者が言いたいことを要約すれば、「今の日本では、法令と社会実態とが遊離しているので、社会的要請に応えた将来に向けて継続する組織体とするためには、法令遵守だけでは不十分であるし、時に組織を破滅に導く恐れさえある。コンプライアンスという言葉がかびすましい今の時代だからこそ、法令遵守だけにとらわれず、社会的要請をしっかり捉えた的確な組織運営を行っていく必要がある。」といった感じだろうか。
 日頃からコンプライアンス(法令遵守)という言葉に違和感を持っていただけに、非常に素直に受け入れることができた。談合問題、ライブドア等の経済事件、耐震偽装事件、パロマ事件などを題材に、高度経済成長期に談合制度が果たしてきた役割などを的確に評価しつつ、マスコミや行政の機能不全が法令遵守だけを問題にするいびつな現状を助長していると指摘する展開は説得力がある。「日本は法治国家か」「日本の法律は象徴に過ぎない」といった各章のタイトルも鋭く興味深い。
 では処方箋はというと、「環境変化を迅速に感知し適応できる組織になれ」という一般的な組織論になってしまうのはしょうがない。それぞれの組織や課題に応じて、異なった処方箋があり、それが正しいかどうかは「進化」の歴史が証明するのだろう。今の時代、それがわからないのがもどかしい。



東京奇譚集  (村上春樹 新潮文庫)  1/19

 文庫版が12月1日に発行。内田樹の「村上春樹にご用心」を読んだから、次はこの本。全部で5編の短編集。最初の「偶然の旅人」は鼻梁をなでる癖のある二人の女が同じ病で入院手術する偶然の話。面白く心に染み入るけど、期待したほどもなくあっさり終わりを告げる。村上春樹ってこんなんだったっけ、と思う。
 2作目「ハナレイ・ベイ」。おしゃれでいい話。3作目「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。でも結局見つけることはできずに話は終わる、中途半端感。「日々移動する腎臓のかたちをした石」。主人公の書く小説と現実の恋人との離合がシンクロする。そして最後の「品川猿」も、名前を忘れるという現在と寮生活時代の過去が猿を媒体にしてつながるという話。
 全てを読み終えてみると、5編には共通の通奏低音が流れており、そのことは1作目の最初に書かれていた。人生に何らかの影響をもたらしたり、または何の影響もなかった「不思議な出来事」。時や場所やときに小説と現実など全く別のところで進行している事柄が偶然のようにシンクロするという物語。その後、何もなかったかのように時はまた日常を継続している。これを内田先生のように、雪かき仕事と邪悪なものとの邂逅と捉えるのも分かるけど、必ずしも邪悪ではない「不思議な出来事」。でもオカルトでもない。人生ってそんなもの、という感覚。



村上春樹にご用心  (内田樹 アルテスパブリッシング)  1/16

 村上春樹は好きで文庫本になったものは全て読んでいるが、読んだ端から忘れるので昔のものはタイトルを除いてはほとんど覚えていない。内田先生の村上春樹論を読むにあたっては、正月にでも実家に置いてある段ボールからいくつか村上春樹を取り出して来ようと思っていて忘れた。手許に村上春樹本がない中でこの本を読み出すのはけっこう不安だったが、読み始めてみると何のことはない。内田先生がブログを始めあちこちで書いてきた文章を「村上春樹」で検索・抽出してグルーピング、セレクトして必要な加筆を加えて出来上がったのが本書。
 すなわち村上春樹批評本ではなく、村上春樹を引用して内田先生が書いた文章を集めたもの。もちろん、「村上春樹は実はこんなことを言いたいんだよ。」といったやさしく本質を突いた批評もあるが、村上春樹を事例の一つとして引用しました、といった文章もあって、それはそれで面白い。これならそんなに構えて読み始める必要はなかった。でもやっぱり「羊をめぐる冒険」や「「風の歌を聞け」をもう一度読んでみようかとも思った。だって面白そうなんだもん。
 第1章は「翻訳家・村上春樹」。「翻訳とは憑依することである」といった翻訳論を収録。第2章は「村上春樹の世界性」。なぜ村上文学は世界性を獲得できたのか。翻訳しても意味が変わらないことなどを示しつつ、その世界性を語る。第3章は「うなぎと倍音」。ここでは村上文学の魅力の源泉はその倍音性と「うなぎ」性にあると説く。第4章は「村上春樹と批評家」。村上春樹はなぜ日本の批評家に評価されないのか、憎まれてさえいるのか、という問いを対する内田先生の考えを示す。加藤典洋の「村上春樹 イエローページ2」の解説でもある「『激しく欠けているもの』について」が出色。最終章は「雪かきくん、世界を救う」。最後は、肩に力が抜けた気楽なエッセイが並んで、読者をやさしく日常生活へ送ってくれる。でもけっこう村上春樹の本質を突いているところがすごい、というか面白い。
 ということで、とても楽しいいつもの内田本でした。よかった、よかった。



日本語は天才である  (柳瀬尚紀 新潮社)  1/14

 娘が学校で薦められて図書館で借りてきた。なかなか読まない娘に代わり読了。「高校生にも読めるように」書いたとあるとおり、楽しく読みやすい、かな。まあまあ。筆者の柳瀬さんは、根室出身の英文学者で、J・ジョイスなどの翻訳がある。
 第1章は、英語の言葉遊びをいかに日本語に訳すか、という話。onionに穴二つ。ところがたまねぎにも穴二つ。ほら、「ま」と「ね」の中に。素晴らしい。第2章は漢字と日本語の関係。漢字からひらがなが生まれ、国字が中国に渡り中国語に取り入れられる。第3章は、日本語には侮蔑や悪態の言葉が少ないという話。第4章は敬語。第5章はルビ。第6章は方言。第7章は「しち」と「なな」について。第8章はいろは48文字を1回ずつ使った筆者創作の言葉遊び、アナグラム。
 はらがな、カタカナ、漢字、記号、ルビ、外国語、なんでも取り入れ消化する。1字1音なので並べ替えも自由自在。そんな日本語を筆者は「天才」と讃えます。たしかに、なかなか、面白い。



古道具 中野商店  (川上弘美 新潮社)  1/7

 年末のブックオフで105円で売っていた。定価は1470円。2005年発行なのにわずか3年で105円。川上弘美にはしばらく前から関心があったので、いい機会と購入。正月休みはこれを読んで過ごした。
 正月に読むような景気のいい話でもない。中野商店という名の古道具屋を舞台にまったりと進む若い男女の恋愛話。主役が本当にヒトミとタケオという二人なのかどうかはよくわからない。本当は「中野商店」かも。やる気があるのかないのかわからない店主の中野と恋多い芸術家の姉・マサヨ。二人を巡る異性たち。サチヨさん、丸山さん・・・。
 川上弘美の作風はうかがい知れた。女性らしく繊細でやさしく上手。小川洋子のように設定から飛びぬけるのでなく、日常の中で展開する話が得意? 1作だけではなんとも言えないね。しばらくは書店の文庫本を立ち読みしてみよう。



チーム・バチスタの栄光    (海堂尊 宝島社文庫) 1/3

 今年の年末年始は、この本を読んで年を越した。「このミステリーがすごい」大賞を受賞し、単行本でもベストセラー、この冬にはついに映画化もされるという傑作である。某アルファ・ブロガーが絶賛しているのを読み、書店で平積みされていたのをついつい購入してしまった。噂に違わぬ傑作、なんだと思う。ミステリーや推理小説は普段ほとんど読まないため、比較ができないが・・・。
 それでも読み始めは「なんか素人っぽい書き出しだなあ。」と思ったが、それがこの作者の持ち味なのか。全体的にユーモアがあふれ、読みやすい中に、医学界をめぐる矛盾や社会批判などが込められ、また専門用語が散りばめられるなど、なかなか複層的な出来映えになっている。ちなみに作者は現役の勤務医である。
 犯人やトリックの設定は、意外とも言えるし、それほどでもないとも言える。要するに日頃読んでいない私ではほとんど適正な評価はできないが、年越しを楽しむには十分なエンターテイメントだったる。




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