Toshi-shi の 日々 ★ 雑記帳  ■
     I N D E X 2005    

 性善説・性悪説 (2005.12.17)
 技術者のエートス (2005.12.17)
 アネハ事件から見える3つの課題 (2005.12. 1)
 駄言・戯言・失言 (2005. 8.20)
 最後の周回 (2005. 4. 1)
 NPOはライバル (2005. 3.15)
 政策評価とマスコミ (2005. 3.14)
 キョードーの文化 (2005. 3.14)
 協働の文化−コーポラティブ住宅考 (2005. 2.24)
 いい話と面白い話 (2005. 2.17)
  I N D E X 2004   2004年の雑記帳はこちらから。



 性善説・性悪説 (2005.12.17)
 今回の事件の中で(今までのところ)一番違和感があったのが、性善説・性悪説という言葉です。
 そもそも一国の制度・法体系が、こんな古い中国の思想に基づき、個別法毎に、又は行政事務毎に、個別バラバラに運用されている、と考えること自体がおかしいことです。ましてや、日本は性善説、アメリカは性悪説と、文化の話になってしまうことは、なんら根拠もない情緒的な意見です。

 それより、なぜ日本の制度が「性善説」的な法規定・運用がされており、アメリカの制度が「性悪説」的な法規定・運用がされているのか、という点を明らかにすべきでしょう。
 性善説だから、性悪説だから、という一見根拠があるような説を流布するのは、それでもってこれ以上の追求を逃れたり、正しい方向へ向かわないようにするための、まさに「偽装」ではないかと思います。国民をだまそうとする勢力に荷担していることになると言うことです。

 しかし意外にこの言葉、国民には説得力を持って迎えられましたね。ある意味、占いのようなんでしょうね。あなたは魚座だから仕方がない。いかにもAB型らしい行動だ・・・。

 さて、ではなぜ日本の制度が「性善説」的な法規定・運用がされているのか。それはそもそも建築基準法が昭和25年に制定された、という点にあります。当時はまだ終戦直後で、圧倒的な住宅不足の中で、にわか大工が多く生まれ、ろくに建物の構造に対して知識のない人々が住宅・建築物の建設に関わり始めました。こうした状況の中で、建物の安全性等を確保するため、建築基準法が定められました。またこの内容を一般の大工や建築士に周知・徹底させるため、民間に比べ建築エリートが集まっていた行政(都道府県等)が、1件1件法への適合性を確認する、という仕組みが作られたのです。
 つまり、その当時は、申請する業者と審査する行政の間には、圧倒的な技術力の差があった、と考えられます。

 しかしその後日本は、戦争の傷跡も癒え、高度経済成長期を経て、また高等教育を受けた専門家の数も飛躍的に増えてきて、民間と行政の技術力の差はなくなり、さらには逆転しているのが実情です。

 こうした中で、建築確認検査という制度は当初の意義を失い、明らかな法解釈の誤りやミスを指摘する制度となりました。申請する側も、経済原則が支配する中で、法規制ギリギリを狙うことが多くなっていますが、これに対して、建築後の近隣紛争が多く持ち込まれることから、行政は集団規定に特に注意をして審査を行ってきたというのが現状でしょう。

 一方、なぜアメリカの制度が「性悪説」的な法規定・運用がされているのか、と言えば、これはひとえにミスを見逃すと、審査側に膨大な支出を伴うからです。これは、審査が保険制度と連動しており、合格したものについて万一不具合が発生した場合には、保険金を支払う必要があるため、少しでも保険支払いが発生しないよう、結果的に審査は厳しくなります。別にアメリカ人が底意地が悪いためではなく、単に功利的な行動をしている、ということです。

 一方、日本のこれまでは、万一ミスを見逃しても、業者側が補填をしてきたので審査を厳しくすることの利益が少なく、かえってしんどいだけという状況が発生していました。それどころか、少し厳しく審査をすると、すぐに政治家が出てきて「なんとかならないか」と圧力が掛かることの方が多く、そうした問題を起こすことは、人事評価的にはマイナスに作用し出世が遅れることにつながります。
 つまり日本人は、審査を甘くすることが功利的な行動様式であった、ということです。

 これが性善説・性悪説の真相であり、けっして文化の問題でも、法制度の問題でもなく、政治風土・社会環境の問題と言うべきでしょう。すなわち、「性善説だからけしからん」という政治家は、自らの問題を指摘しているのであり、その責任を痛感し、自らの問題として反省をすべきだと思います。

 日本の建築行政がダメなのではなく、あなたがたが若しくは私たちがダメなのです。



 技術者のエートス (2005.12.17)
 神戸女学院大学で哲学を教える内田樹先生のブログは、けっこう一部では人気のあるブログだと思いますが、少し前に以下のような内容が書き込まれ、かなりの反響を呼びました。

 技術ニッポンの黄昏 http://blog.tatsuru.com/archives/001419.php

 研究所員が非常識な行動をして新聞記事になったことのあるこの研究所では、技術者が暴走しないように、良識ある社会人である事務屋が「監視」しているのだそうである。
 ほんらい、技術屋と事務屋の対立関係というのは、技術屋が採算を度外視してできるだけ質の高いものを作ろうとし、それに対して、事務屋が「それではコ>ストが合わない」と言って質の切り下げを画策するというかたちで展開するのが「常道」である。
 それが逆転している。
 もし、技術屋が事務屋の御意にかなうように、すすんで法的規制「以下」のことをする傾向があるというのがほんとうなら(耐震強度偽装事件を見ると、どうもほんとうらしい)、それは戦後日本の繁栄を支えてきた「技術者のエートス」というものが死滅しつつあるということである。

 特に技術系の人たちから、
(1) 内田先生は事務屋の側に立って技術屋に加重な倫理を押しつけている
(2) 技術者のエートスは、技術者個人の中に植え付けられるものではなく、技術者を取り巻く環境こそがエートスを生み出すのだ。
 といった反論が多く寄せられています。

 それらはいずれもそのとおりなのですが、私は内田先生の文章を、「これまでの常道が逆転している状況は、日本を破滅に導く道である」とは言っているものの、これは技術者の倫理意識の低下によるものだ、とは言ってないように感じるのです。すなわち、(2)こそ問題であり、それは技術屋、事務屋のどちらかの責任ではなく、全体として日本自体がゆがんできている、と言いたいのだと思いました。
 考えてみれば、事務屋といっても、経営や経理、総務などの特定分野での専門職であることは変わりないわけで、そもそも技術屋・事務屋と分けて考えることが間違っているのかもしれません。



 アネハ事件から見える3つの課題 (2005.12. 1)
 アネハ事件が建築関係者に与えたショックは一般の住民の方の比ではないと思います。今まで信じてきた建築関係のシステム自体が大きく揺すぶられていると感じている専門家は多いのではないでしょうか。
 事件に関わった各者の責任や処分、被害者への対応など、様々な意見が聞かれ、また対応がされてきています。ここでは、直接アネハ事件に関連しての対応ではなく、アネハ事件から見えてきた建築・住宅供給を巡る課題について、私見を書いておきたいと思います。

1 住宅局という存在
 まず1点目は、国土交通省の中における住宅局という存在です。今回の事件は直接的には、確認検査業務の民間機関への開放という建築基準法改正の問題が指摘されています。これは規制緩和の時流にいち早く建築行政が乗っかったものですが、同様に国のトップの方針にいち早く乗って政策変換をした事例は、国土交通省の中でも住宅局が最も多いと言えます。
 例えば、住宅都市整備公団と住宅金融公庫の改革。前者は、業務を都市再生に絞り、独立行政法人都市再生機構と組織を変え、後者は、民間への直接融資は中止して民間金融機関への資金供与を主たる業務としました。しかし本命だったはずの道路公団はようやく民営化されたものの実態はご存じのとおりだし、他の金融公庫の改革はようやく今まさに議論がされ始めたところです。
 また、三位一体改革に伴う補助金削減も、国交省事業の中では唯一公営住宅建設費補助金だけが地域住宅交付金と姿を変えました。さらに今年度の補助金削減は、公営住宅家賃対策補助金の削減で対応するようです。
 建築確認の民間開放もこうした事例と同様、国交省の中で住宅局がいち早く政策変換をした事例といえます。
 これと言うのもひとえに、土木技術者中心の国交省の中で、唯一住宅局のみが建築技術者主体の局であり、国交省の中では最弱小な局であるからではないでしょうか。弱いゆえに、真っ先にスケープゴートにされ、弱いゆえにピエロのように自ら率先して改革を受け入れ、トップに対して媚びを売る。そんな状況がかいま見えるような気がします。

2 分譲という事業手法
 2点目は、住宅分譲という事業手法の特殊性です。今では住宅を分譲するということに誰も違和感を持ちませんが、圧倒的多数が賃貸に住んでいた戦前には、都市部で持ち家を持っているというのは少数の上流階級だけであり、住宅分譲もこうした人たちを対象に販売をされていました。
 戦後の住宅難に際し、賃貸住宅を建設する資金に窮した住宅公団が、短期で資金回収ができ、すぐに次の住宅建設に資金を回せる仕組みとして住宅分譲を発明し、積極的に取り組みました。これを民間ディベロッパーが真似て取り組んだのが、今の分譲マンションです。よって海外では日本のような区分所有形式の共同住宅というのは少なく、ほとんどが賃貸、または協同組合等の所有によるものとなっています。
 今回の事件の主役の一人であるヒューズも、金融機関から金を借り、商品としての住宅を造っては売り、造っては売って利ざやを稼ぐという商売をしていました。クレームが付かない程度の商品として住宅を売ってしまえば、万一の地震で倒れようと責任は追及されない、という仕組みです。
 今、不動産業界には、従来の銀行融資だけでなく、REITという不動産証券化による投資資金が大量に流入してきています。こうした仕組みは、今後ますますアネハ事件を誘発していく要因になるとは言えないでしょうか。
 今回の事件は、本来長期的な社会資本整備という仕事を、経済原則に委ねてしまった結果といえると思います。

3 確認というシステム
 最後は、建築確認というシステムそのものの持つ問題点です。今回の報道の中で、確認という行為と、検査という行為が混同して使われていることが気になりました。民間確認検査機関というものだから、確認して「検査」する、と思った人が多いのでしょうが、確認と検査は全く別の行為であり、別の機関が行うことができるようになっています。
 確認とは、建築物の設計が建築基準法に適合していることを「確認」する行為であり、検査とは、建築中又は完了後の建築物が、確認された設計図面と違わないことを「検査」することを言います。よって、今回の偽造が中間検査で見抜けるというのは全くあり得ず、ましてや武部幹事長が言うように、専門家が一目見れば安全かどうかわかる、なんてことは絶対ありません。
 ところで、確認や検査に期待することは、安全・安心な建築物とすることです。きちんとした確認や検査が行われれば、安全・安心でない建築物が建築される可能性は低くなると言えます。しかし、しょせん人間がやることにはミスはつきものです。万一ミスがあったときにはどうするか、を同時に考えておく必要があるのではないでしょうか。
 私はそれは保険制度であると思います。確認と検査が行われた建築物については、万一倒壊などがあっても保険で償われる仕組みを備えてこそ、この制度に期待した答えが得られるのではないでしょうか。もちろん保険である以上、相応の金額が必要でしょうが、確認と検査を受けなければ保険にも加入できないとなれば、確認・検査実施率は飛躍的に伸びると言えるでしょう。
 確認を行う建築基準法の規定には大きく分けて、集団規定と単体規定があります。前者は用途制限や容積率などで、近隣への迷惑を防止する規定です。一方、後者は建築物自体の安全性等の規定です。前者は行政の自治事務として許可制とし、後者は、保険制度と連動した確認・検査制度として民間開放するというのが最も適当ではないでしょうか。
 こうした提案は私だけでなく、確認検査の民間開放時にも多くの自治体から国交省に寄せられたと聞いています。しかし、弱小局ゆえにトップに尾を振る国交省の一部幹部が、自治体の危惧や提案を無視して独断専行したことが今回の事件につながっている、と憶測するのはけっして私だけではないと思います。



 駄言・戯言・失言 (2005. 8.20)
 電車に揺られていると、ふと身体の中から言葉のフレーズが浮かび上がることがあります。まあ、夢の中で大偉人になったようなものですが、今年になってノートに書き留めたフレーズは・・・。

能力と品性は比例しない
 役人のこと。お勉強はできるんでしょうけど、志も、その能力に比例して高いとは言えません。採用試験の方法を再考する必要があるのではないでしょうか。

ミスをすることは人間的である。ミスを恐れることは非人間的である。
 前者は、私がいつも言っている「人間はミスする葦である」に倣ったもの。後者は、ミスを恐れて硬直的な仕事しかいないと、非人間的な行政になる、といった意味。本当は、ミスを恐れることも人間的な行為なんですけど、そこは一応自分を戒めようということで。うーん、人間的。

自己に対する正の信頼と負の確信
 自分のことは信頼していたい。でも絶対にできない、絶対に失敗するという負の確信もある。

●住む装置から住む道具へ
 これは単に住宅のことを言ってます。住宅を住む装置とするのではなく、住む道具として使いこなす。「住む」という行為は「住宅」に付属しているのではなく「住む人間」に付属している、という意味です。

●経済のための都市でなく、住むための都市でもなく、都市のための都市。
 都市は、自ら都市としてある。結果としての都市、といった意味かな。

●景観は、守るものでも、創るものでもなく、「ある」もの。
 「物語」という言葉がその横にメモしてありますが、「街は物語を伴うことで魅力的になる」という意味だと思う。特に、生まれたばかりの子供にとっては、今あるものが景観。そこからスタートして、どう景観を意識して関与していくか。

●価値は、後天的に取得した知識と、先天的な感性で計られる。
 たぶん景観論の一部だと思う。

 最後に、TVで聞いた納得の言葉。

●「人間には、いい人間と悪い人間がいる」のではなく「人間には、いい面と悪い面がある」
 これはTVタックルで、大竹まことが、某厚労省幹部の言葉を捉えて言い直したもの。全く、そのとおり。




 最後の周回 (2005. 4. 1)
 4月1日。新年度が始まった(ちなみにホリエモンは「うちは違うよ」と言っていたが・・・うちはそうなので)。先月に誕生日を迎え、48歳になった。年男だ。私と1回り違う先輩は、昨日付けで退職した。私の会社員人生もあと1回りだ。最後の周回。考えてみれば、会社にいる期間はわずか干支の3周分。1周目は勉強し、2周目は試行錯誤し、そして3周目は?。3日、3年、3回り。どれも同じかも。



 NPOはライバル (2005. 3.15)
 近年の行政運営の方向として、「NPOとの協働」が挙げられることが多い。NPO支援室が設置されている自治体も多いし、国の外郭団体等からNPO等に対して助成や委託が出ることも最近は多い。しかしそれは手放しに歓迎すべきことなのだろうか。
 NPOの出自を考えると、従来行政が担うと考えられていた分野で、行政サービスの受益者の多様性に目が向けられるようになった結果、従来の行政の画一的な施策では対応しきれない部分があることが注目され、それに応える形で誕生してきたものが多い。基本的にはニッチな公共需要に対して、採算性は一応度外視しても対応すべきという義憤というか正義感に駆られ、それを使命に掲げて取り組むのがNPOの本来的姿だ。もちろん、採算性は法人としては重要な課題であることはもちろんだが、採算性の取れないNPOは法人化せずともNPO活動を展開する。
 ところでそれはやはり行政施策の対象分野とは言えないだろうか。従来の行政の画一的な施策では対応しきれないため、NPOなど小回りの利く組織の活動を誘導しつつ、行政施策効果の及ぶ範囲を少しでも広げようとするのが、NPOとの協働の主旨だ。つまり目的・使命という部分では、行政・NPOとも同じと言える。
 「NPOとの協働」自体がよいことだ、という風潮があるが、「NPOとの協働」自体は行政の施策目的を達成するための手段に過ぎず、目的もない協働はあり得ない。NPO支援室などは、NPO法に基づく認定事務の他、NPOの育成支援が業務と思われるが、協働自体に取り組むのは間違っているし、協働の数を競っても意味はない。それは行政の至らなさの指標ではないか。
 NPOは行政にとって協働の相手にもなるし、ライバルでもある。NPOは既に企業との協働も模索している。行政の自立が必要である。



 政策評価とマスコミ (2005. 3.14)
 3月13日付の中日新聞朝刊1面に以下のような記事が掲載されていた。

各省庁政策評価で第三者の監視強化
 政府は12日、各省庁が自らの政策の効果や必要性を自己評価する「政策評価制度」の実効性を高めるため、学識経験者など第三者による監視機能を強化する方針を固めた。現行でも、各省庁は学識者の意見を聞いた上で、政策評価を行っているが、形式的に追認するケースがほとんど。これまでまかり通ってきた官僚の「甘い自己採点」に、厳しく目を光らせることにした。 同制度を定めた行政機関政策評価法では法施行から3年が経過した2005年度に見直しを行うことが規定されており、政府は、監視強化を盛り込んだ新たなガイドラインの作成を急ぐ方針だ。 これまで、各省庁は、政策評価が事実上まとまった段階で、学識者の意見を聞く会議を開催。あらゆる政策のチェックを一括して求めるケースが多いという。一度に数千件の政策評価を行う省庁もあるだけに、短時間の会議で精査するのは不可能で、ムダな事業が見過ごされてしまうと指摘されていた。 政府は具体的な監視強化策として、政策の計画段階から、個別政策ごとに学識者に意見を求めるなど、第三者がチェックする機会を増やす方針だ。
 2面にこの解説記事が掲載されており、そこでは政策評価の例として、公共事業再評価により事業を中止した事例が取り上げられ、「しかしこうして中止されるものはほんのわずかだ」という論調になっていた。

 ところで、政策評価と公共事業評価は一応行政では分けて定義されている。すなわち、道路事業といった一つの目的に向けて同じ仕組みで補助や事業を行うもの全体を一つの単位として政策評価を行っており、一方公共事業評価は基本的には事業路線ごとに、費用対効果を算出するなどして、工事の実施の可否等を評価している。

 「一度に数千件の政策評価を行う省庁もある」という文面からは、こうした公共事業評価も政策評価としてカウントしていると思われるが、それを「>短時間の会議で精査するのは不可能で、ムダな事業が見過ごされてしまう」というのは無理からぬ話だが、公共事業について言えば、地方整備局や各都道府県等の事業主体ごとに審査委員会を設置して審議をしており、さすがに数千件を一度には評価していないのではないか。

 また政策評価を経て「中止されるものはほんのわずかだ」という論調にも違和感を覚える。これは根底に「公共事業は無駄な事業だ」という意識があるように感じるが、1割も2割も無駄な公共事業が行われているとしたらトンデモナイ話で、通常は公共事業を切望する人々が一方でいて初めて着手される。限られた公共事業費の中で何を優先して実施するか、その透明性が求められているとは思うが、ほとんどは必要性があって着手されるのであり、それが無駄かどうかは費用対効果などで単純に比較できるものではなく、高度に政治的な判断が必要とされる。
 例えば、過疎地域の道路は都市部に比べれば、費用対効果は著しく低くならざるを得ないが、過疎地域の道路建設は全て凍結するかどうかは政治マターであるのは周知のとおりだ。もちろん費用対効果を重視して優先度付けするという考えもあっていいが、それ以外の判断だってあり得るだろう。さらに言えば、費用対効果算定時の効果の算出方法も事業によってかなり考え方に差があるし、金額では表現できない効果(マイナス効果も含む)も多い。

 今回の記事で感じたのは、近年世の中の風潮として、客観性や数値評価を重視する傾向が強まり、マスコミも安易にそれに同調する傾向が強すぎるということ。数値では評価できないことはたくさんある。政策評価の仕組みをどれだけ精緻にしても、結局それで世の中がよくなるどころか、大事なものを落とし、政策評価を行うという無駄だけが増えている、という結果になる危険性をこそ、マスコミがきちんと評価する必要があるのではないだろうか。

 マスコミ(メディア)は評価主体としての期待にいかに応えるかを自問してほしい。



 キョードーの文化 (2005. 3.14)
 今後のコーポラティブ住宅の方向について考えていた。コーポラティブ住宅は現在の時代の流れの中では時代遅れになっているのではないか。そしてふと、次のようなことを考えた。

 キョードーという言葉は、「共同」、「協同」、「協働」と様々ある。思うに「共同」とは、目的を同じくする複数の者が一緒に同じことを行うこと。「協同」とは、同じ目的に向かって複数の者がそれぞれ違うことを協力して実施すること。「協働」とは、違う目的を有する者が一つの場・機会に集まってそれぞれ違うことを協力して実施すること、と考える。とすれば「NPOとの協働」とは、NPO等とは異なる明確な目的を持ち、NPO等とは異なることを実施すること、と言える。

 先の、ヨーロッパ、アメリカ、日本の「協働の文化」の違い論からすると、ヨーロッパは共同、日本は協同、アメリカは協働ということか。



 協働の文化−コーポラティブ住宅考 (2005. 2.24)
 「安住の会」という、コーポラティブ住宅の実現をめざす会で活動をしている。先日、例会の際に、「コーポラティブ住宅は、現在の時代の流れの中で時代遅れになっているのではないか」といったことが話題となった。これに関連して、以下のようなことを思った。

 「協働」はコーポラティブ住宅の基本的な精神だが、これに対する認識が国や風土によって、かなり違うのではないか。

 北欧やヨーロッパなど、気候風土が厳しい国では、共同の住まいや都市をつくって身を寄せ合い、協力し合わなければ生きていくことも難しい。このため、「死なないための協働」が実感として身に付いている。
 日本やアジアは、協働しないと死んでしまう、というほどの厳しい気候ではないが、米の生産や地域経営の場面では、協力し合って生きてきた歴史があるため、「生きるための協働」には理解がある。
 アメリカは、ヨーロッパからの移民の開拓によってつくられた国だ。彼らは幌馬車を連ねて西へ西へと向かったが、発掘した金は平等に分配したという話は聞いたことがない。「稼ぐための協働」だったのではないか。アメリカでコーポラティブ住宅の話はあまり聞かない。もちろんコーハウジングの動きがあるのは承知しているが、大きな流れにはなっていない。

 こう考えると、日本人に「住まい」そのものに「協働」を強いるのは、バブル期などの高地価で住宅に手が届かないといった状況がないと難しいのではないか。戸建てが手に入るのなら戸建てを入手し、お互いのプライバシーは守りつつ、生産や地域づくりの場面では協働する、というのが日本人の性格に合っている。これの現代の最たる例が「社宅」だ。

 日本で「生きるための協働」に根ざしたコーポラティブ住宅をめざすとしたら、今後は「生きがい」の共有化・協働化が考えられる。「終身型社宅」づくりだ。
 これからの、特に高齢者にとっての「生きがい」と言えば、農作業や森林保全等かもしれない。しかし「生きがい」を企画してコーポラティブ仲間を集めるのはかなりしんどいのではないか。逆に「生きがい」を共にするグループが、「友人や仲間と一緒に住もう」とするのを支援する方がいい。

 近年、こうした動きに呼応したコーポラティブ関連の話題が持ち込まれることが多いように感じる。



 いい話と面白い話 (2005. 2.17)
☆いい話
 小牧市に愛知県が開発した桃花台ニュータウンは、入居当初から、交通の便が悪いと不評で、なかなか開発が進まなかった経緯がある。名鉄小牧駅と結ぶ新交通システム・ピーチライナーも開通し、名鉄小牧線も地下鉄と接続してだいぶ便利になったが、それでもより早く便利なJR中央本線春日井駅への接続を望む声が強かった。小牧市は、他市への接続を嫌い、名鉄も自らも資本出資しているピーチライナー&名鉄小牧線の利用を誘導するため、春日井駅へのバス運行には消極的だった。こうした状況に業を煮やした住民が立ち上がり、会員制で開設したのが、桃花台と春日井駅を結ぶ桃花台バス。同年10月に、総合交通事業(タクシー・バス・観光)を尾張小牧を中心に展開しているあおい交通が引き継ぎ、一般乗合路線して運行しています。
 この話はこの地域では有名でしたが、今日たまたま、そのバスを使って通勤している人と話す機会がありました。定期券がペラペラ、ピンクのマーカーで着色されたおもちゃみたい(でもカラーコピーすると(写)マークが浮かび出すハイテクものらしい。とても見えない。)。少し遅れても待ってくれたり、時に信号も無視するほどのかっとび運転(交通違反はしていない、と思います)、運転手さんと乗客は顔なじみで、毎朝「おはよう」「いってらっしゃい」のあいさつと、とってもフレンドリー、アットホームなバスだそうです。いいなあ。
★面白い話
 その帰り、自転車で通う私の前を走る名鉄バスが突然停車して、Uターンを始めました。行き先を見てナットク。道を間違えたんですね。そんなこともあるんだ。がんばって!バス運転手さん。



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