Toshi-shi の 日々 ★ 雑記帳  ■
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 裏金の損と得と罪と罰 (2006.10.21)

 昨日夜、「踊る大捜査線」の関連番組として、「逃亡者 木島丈一郎」をやっていた。その最後で、逮捕された稲垣監理監が「私用に着服したことは絶対ないからそれだけは信じてくれ。」と主人公の木島刑事に一言言って、パトカーに乗り込むシーンがあった。警察幹部が会計課に指示して作らせた裏金を暴力団組織に渡して情報を得ていた、という設定だが、これを見ながら、岐阜県の裏金問題を思い出した。
 岐阜県庁は今大騒動だろうと思う。税金や補助金等の公的な収入を、予算書にない使途に使い決算でも虚偽の報告をしてきたことは、けっして行ってはいけないことであるし、歴代引き継いできたことは当然罰せられねばならない。しかし、事件勃発以来ずっと疑問だったのは、一体この裏金は何に使われてきたのだろうか、ということである。知事が東京出張の際に規定より高額なホテルに宿泊してその差額の埋め合わせに使われたとか、一部燃やしちゃった、なんて話もあって、まるでほとんど県庁職員の飲み食いや私腹を肥やすことに使われたように報道されるけれど、本当だろうか。先週には、この裏金の一部がユニセフに寄付されており、この返還を求めている、といったニュースもあった。結局、推察するに、その大部分は、稲垣監理監と同様、私腹を肥やすことではなく、業務の円滑の遂行に必要にして十分な予算計上ができなかった経費に使われたのだろう。早い話が官官接待だ。そのことは多くの県民が感じているのではないだろうか。官官接待の目的は事業の円滑な実施や補助金の取得だったりするわけで、その効果がどれだけあったかは知らないが、この結果得をしたのは、直接接待を受けた者らと岐阜県民自身と言える。
 岐阜県民は今回の事件で、県庁幹部や職員、OBから裏金相当額の返還を求めており、全額は無理にしても、ある程度「損」は取り戻せ、かつその効果である「得」は既に手に入れている(もっとも、それが徳山ダムの建設費だとすれば、本当に得かどうかはよくわからないが)。罪と罰を歴代の官庁幹部や職員が受けるのは当然としても、損も彼らだけにしわ寄せされている。必要悪な社会システムの清算がこうした形で行われることは、なんとなく納得いかない感じがして仕方がない。




 責任の種類 (2006.10.21)

 岐阜県の裏金問題でも感じることだが、責任の取り方にもいろいろ種類があるらしい。岐阜県の幹部や職員、OBらが裏金相当分を返還するのは、法的な責任を取って、ということではない。法的責任ということであれば、彼らの罪が明確に確定される必要がある。
 愛知県でも桃花台の地盤沈下問題で県の責任が問われている。これは、県は造成し、当時の住宅公団が購入した土地に、建て売り住宅を建設して分譲したところ、20年近くが経って地盤沈下問題が発生しトラブルになっているもので、公団、現在の都市再生機構は、住民への一定の対応はしつつも、不良な土地を分譲した県を法的に訴えている。昨日の新聞によれば、県は造成時点で不審な産業廃棄物などはなく適正な造成をしており過失はないと訴えているようだが、これは法的な責任の有無を争っているもので、裁判所が適切な結論を出してくれるだろう。これとは別に、住民が直接県の責任と対応を問う行動を起こしており、これが事態を複雑にしている。彼らが県に求めている責任とはいったい何だろう。財産的・精神的な責任は法的には直接被害を及ぼした公団に求めればよい。そこで決着が着いた(もちろんまだ着いていないが)以上の責任が県にあるとすれば、それはどういう種類の責任なんだろうか。
 県は今のところ、知事の会見などを読んでも、対公団との責任問題を対象に責任のないことを主張しているだけで、住民に対する責任についての言及は聞かれない。こうした責任問題が言われるようになったのは、例のイラク戦争時の自己責任問題からではないかと思う。責任がなければ何もしなくてもよい(と当時の政府・政治家は被害者の自己責任を主張した)という主張には首を傾げる部分もあるが、何かをする(桃花台の場合は住民に県税から賠償をする)には相応の責任と説明が求められる。岐阜県の対応は政治的な責任の取り方かもしれない。
 県が今後どういう対応をするにせよ、それはどういう種類の責任なのか、興味がある。




 社会システムの値段 (2006. 9.16)

 アネハ事件以降、建築基準法等の改正作業が急ピッチで進められている。愛知県では自らアネハ物件を見逃したということもあり、構造審査の厳格化や相談体制の整備などが進められている。これらは国民の不安を解消するためにやむを得ない措置だと思ってきたが、先日、ある建築会社の方から、「アネハ事件以降、構造審査に異常に時間を要するようになり、非常に困っている。」という話を聞いた。
 考えてみれば、これまで構造設計は施主と設計者との信頼関係の中で、ほとんどの場合、特に問題になることもなく行われてきた。万一、構造上の瑕疵があれば、施工者が誠実に対応するというのが当たり前だった。ところが、わずか1件のアネハ事件の発生以降、すべての構造設計に疑惑の目が向けられ、厳格な構造審査が行われるようになった。
 もともと構造設計にあたっては、部材の強度や応力等について、相当の(2〜3倍)安全率を見込んでおり、多少のミスであれば十分許容するように設計されている。また、万一の瑕疵に対しては、主要構造部10年の瑕疵担保責任が義務付けられている。設計上の瑕疵と施工上の瑕疵の問題はあるのかもしれないが、それにしても、一設計者の悪意ある犯罪に対して社会が備えるべきシステムはどの程度が適当なのか、考え込んでしまった。
 その後、建築界では、エレベータやアスベスト、天井落下、手すりの落下など、様々な事件が矢継ぎ早に発生した。パロマ事件も同類だろう。こうした問題に対して、社会的にどれだけのセーフティネットを張ることが適正なのか。
 こうした問題が起きるたびに、国交省などから各自治体に実態調査の依頼があり、対策の強化が要請される。構造審査の厳格化による審査期間の長期化は、結果的に申請者の経済的な損失につながる。期限内に審査を行うためには、残業が増加し審査人件費の上昇につながる。実態調査や対策検討もただではできない。構造審査のピアチェック化は必ず審査料の高騰をもたらす。
 丈夫なセーフティネットにかかる経費は誰が負担するのか。従来のような信頼関係のセーフティネットでもかまわないと思う人々にも、平等にその加重な負担はのしかかってくるのだ。「不安の時代」と言われるが、その解消を行政や社会システムに求めれば、必ずやその負担は自分にも返ってくるということを知るべきだ。




 何が悪いの?−手段としてのバッシング (2006. 5.27)

 社会保険庁が保険徴収率を改善するために、本来必要な徴収免除該当者からの申請なしに免除をしたとして問題になっている。もちろん法手続きに則っていなかったことはまずいのだろうが、まるで第2の偽装事件であるかのように言われなければいけないような事件なんだろうか。
 好意的に見れば、本来申請さえすれば納付免除されるにも関わらず、制度をよく知らないとかめんどくさいといった理由で手続きをしなかった人に対して、超法規的に、大岡越前的に、手続き代行的措置をしただけのことで、申請をしていなかった人から見れば、実に血も涙もある行政を行ったと言える。それを、厳格な手続き論を展開して、血も涙もない行政をしなかった故に叩かれるというのはおかしいんじゃないか。最初に報道されたときから、どうしてここまで叩かれなければいけないのか理解できないでいた。同様な思いを持った人は大勢いるだろうと思って検索したが、ほとんどいない。だが、いろいろと見ていて分かったのは、結局、これは「社会保険制度や社会保険庁の存在自体を問題にしたい」という意志があったところへこの事件が発覚して、これをいい機会に騒いでいる、ということだ。
 社会保険庁自体のこれまでのやり方のまずさもあったかもしれないが、そもそもこれは日本の社会保険制度の問題であり、税金化してしまう、申請主義でなくする、など本来、制度論として議論すべき問題だろう。そうした議論を再度巻き起こすための手段として、今回、こんな些末な問題が大層な事件のように取り上げられたように思えてならない。
 社会保険庁の体質にしたところで、多少業務の特殊性もあるかもしれないが、しょせん、日本の社会組織の中では一般的に見られる、その場主義、なれあい主義が明るみに出たに過ぎず、ましてや社会保険庁職員は悪人の集まりというわけではなかろう。これは、昨年のJR西日本の脱線事故の時のJR社員へのバッシングにも通じる。あの時も、他の管区で行われた歓送迎会に対するバッシングには、異様なものを感じた。また、これは地方の話題だが、「手段としてのバッシング」という点では、愛知県小牧市の桃花台NTの新交通ピーチライナーの存続問題が浮上した際に、これと付随するように取り上げられた地盤沈下問題報道の時も同様に感じた。

 一昨日、職場の別のグループあてに電話があり、担当者が不在のためその旨告げると、「こちらは今聞きたいことがあるのに困るなあ。帰ったら電話くれるよう伝えて。」と言い捨てて電話が切られた。その夕方、ある団体の総会後の懇親会で相席となった若者に「どんなお仕事をされてるんですか」と話題を振った私に、こんなことも知らないのと見下した態度で彼の業界の現状を教えてくれた(エラソーに。オレだって別に聞きたきゃネーヨ)。これは、他人の痛みや思いが分からない、気を回せない・回さない人が増えているという事例。

 何か最近、社会がますます殺伐としてきた。それは残虐な児童犯罪の増加とかいうことではなくて(多分、凶悪犯罪の件数自体は年々減少しているはず)、そうした事件をことさら取り上げ、不安をあおり、自分に降りかかっていないことに「あの人よりはまし」と安堵し、そしてまた不安な社会に戻っていく、そんな社会になっているということ。マスコミも含め、日本の社会が非常に病的になってきている。今回の社会保険庁バッシングもその一つと思うのは私一人でしょうか。




 ストックとフロー (2006. 2. 3)

 いよいよ人口減少時代を迎え、特に住宅や都市計画分野では、フロー重視からストック重視への政策転換が盛んに叫ばれている。確かに、これまでのように多くの住宅や施設は不要になる訳で、その意味では間違ってはいないのだろうけど、ストック重視と言っても単に今あるものを大事に使い続けていきましょう、というだけではない、重要な意識の転換があるように感じる。

 ストックを意識するということの意味を今一度考えてみる。それは、単に無記名なモノがそこにあり続けるというだけではない。そこにあり続けるということは、その存在を主張し続けるということだ。我々はその存在を意識し続けるということだ。
 先日、ヒルズ表参道がオープンした。ご存知、安藤忠雄だ。そこに彼は昔の同潤会アパートを復元した。それはただの昔のアパートではなく「同潤会」アパートだ。大事なのはその名称であり、そのものにまとわりついた物語であり、記憶である。
 ストックを意識するということは、一つ一つ今あるものを、それが持つ名前、物語、人々の記憶や経験といったものもひっくるめて引き受け、それを大事にするということだ。ストックを大事にするということは、そこまでの覚悟を持って、歴史を引き受けるということである。

 一方、フローを重視するということは、モノの総体をとらえ判断していくことである。全体としての過不足を常に把握し、不足があれば補い、質の低下があれば置き換え、そしてとにかく総体として維持していくことである。
 先に、スクラップ・アンド・ビルド・アンド・リサイクルという考え方を紹介したが、リサイクルという配慮があれば、モノは総体としてスクラップ・アンド・ビルドしていくことで全体の質は維持されていくことを評価する考え方である。それはそれで正しい態度だと思う。

 言い換えると、ストックなモノの見方は、モノを「固有名詞で見る」ということである。○○団地はその歴史性故に保存しよう、または住民の記憶を残す形で建て替えよう、と考える態度である。一方、フローな見方というのは、モノを「一般名詞で見る」ということである。団地をその建設年度や老朽度で評価し建替え団地を決める、という姿勢である。
 と考えると、我々は、フローからストックと言いつつも、フローなモノの見方・考え方から少しも変化していないことに気がつく。

 人の名前やモノ・コトに関わる物語をいくらでも語ることのできる人たちがいる。いわゆる文系の人に多い。一方、すぐに人の名前を忘れてしまう自分がいる。ここにいる。モノ・コトに関わる物語も面白いとは思うもののすぐに忘れてしまう。でも、固有名詞は忘れても、物語の流れは覚えることができ再現もできる。フローな考え方なんだろう。

 ストックとフロー。実はどちらも大事、ということではないか。




 微分された自分・積分された自分 (2006. 2. 3)

 もうだいぶ前になるが、「内田 樹の研究室:『すいません』の現象学」(http://blog.tatsuru.com/archives/001527.php)で、レヴィナスの「同一者」について書かれていた。我々は目が覚めるたび、いや、一秒ごとに違う自分になっている。さっきまでの自分は今の自分と全く同一ではない。しかし、そういう自分を自覚せず「怠惰」に「そのつど自己同定された自分」と「永遠不変の自分」をまとめて「自分」と呼んでしまう。そんな内容のことが書かれていた。

 これに対して「404 Blog Not Found:d自分/dt」(http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50348538.html)というトラックバックがかかっている。こちらでは、「それでは、自分はどこまで『連続』しているのだろう」と問いを投げかけ、結局「自我・自意識」が自分の範囲を決めるということを提起する。「自分と思っている範囲が自分」という訳である。そしてそうすると、「自分」の領域は個人の中に収まらず、「うちのカミサン」や「うちの国」まで広げることも可能と考える。そしてそこに他者との「衝突」が発生する。

 微分された自分「[その時の自分] = d[自分の一生] / dt 」
 積分された自分「[自分の一生] = ∫[その時の自分] dt 」という発想も面白い。

 微分された自分とは、刹那刹那な自分をそれぞれ違うものとして見る視点。そこから、変化していく自分自身、自分とは誰か、今考えていること行っていることの意味を厳密・切実・真剣に考えることができる。
 一方、積分された自分とは、厳密な自分への反省もなく、どこまでも野方図に広がっていく自分意識。そこからは、他人を尊重する視点や他者を認め他者から学ぶという姿勢も消え失せる。わがままで自分勝手なふるまい。

 自分とは何か。微分と積分的視点で見つめ直すと、面白い新しい自分が見えてくる。




 スクラップ・アンド・ビルド・アンド・リサイクル (2006. 1.21)

 日本建築学会会報の建築雑誌は2年おきに編集委員が替わる。2006年からの編集委員長は東京大学の松村秀一助教授。建築生産の分野で興味深い言説を発表している松村氏には、注目をしていた。その第1号の特集は、新年号にふさわしく「初夢−なお日本で造らねばならない建築」。もちろん、人口が減少局面に入り、フローからストックへ、新規建設からリニューアルへ。そうした時代の転換期になお、造らねばならない建築とは何か、という問い掛けだ。
 これに対する答えとして、東工大の塚本助教授の「逆欠如の風景」という論文が面白い。「逆欠如」とは、日本にあって他にないもの、という意味だそうだが、その代表として「スクラップ・アンド・ビルド」を挙げつつ、しかし、建築物単体としてのスクラップ・アンド・ビルドは批判されるに足らない。「スクラップ・アンド・ビルド・アンド・リサイクル」となることで、かえって世界に貢献することだってありうる(と開き直る)。しかし問題は、こんな小さな建物のスクラップ・アンド・ビルドではなく、市街地自体がスクラップ・アンド・ビルドされ、今までとは全く違った土地利用(低層住宅地が超高層商業地に)になってしまうことだ。まちをスクラップ・アンド・ビルドしないでリノベーションし、小さな単位の建物はリノベーションせずスクラップ・アンド・ビルド・アンド・リサイクルしよう、と提言する。まさにそのとおりだ。




2005年以前のログは、(遊)OZAKI組「STOCK YARD」




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